志情(しなさき)の海へ

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野村岳也監督の短編ドキュメンタリー映画「ふじ学徒隊」を見た!三ヶ月の地獄から生還した少女たち!

2012-06-19 20:11:51 | 表象文化/表象文化研究会

衝撃的だったのは、ふじ学徒隊の女子学生たちの犠牲が少なかった背景に、彼女たちが属した隊の軍医2人の死生観や慈悲の心がまたあったということかもしれない。日本兵=悪の構図で捉えられない極限の物語がまたそこから溢れてきた。青酸カリで殺さなかった中尉がいた。重症患者を見捨てなかった彼らの指針は少女たちを最後まで戦場に放り投げなかった意志も貫かれていた。彼女たちを守りたいという義侠心が贖罪感がそこに流れていたこと、それが感じられた。(解散命令は6月26日、糸洲豪で。小池隊長は「絶対死んではならない」と、話したという)

片や、死んだ叔母の背中に赤子を捨てた同じ親族の者たちの証言もさらっと登場するところに、監督の厳しい眼差しが感じられた。被害者として描かれるパターン化した沖縄住民の姿の中で、しかし、極限状況において、お乳がなければ生きていけない赤子を米軍に探知されるからと死んだ母親の背中に残したという証言など、人間の根源的な欲望の凄まじい悲しさが込められているように感じられた。雄弁ではない監督の描き方は、この小さなエピソードの中に込められているように思えた。

残虐さはこれでもか、と流れる。しかし、戦場で、人間の巨大な歯車に抗して人間性を貫いて生きるということの厳しさが溢れてくる。ささいなところで、沖縄の青春=少女たちの思想をまた支配していた皇民化現象、が漏れでてくる。規制の枠組みの中で、縛りの中で生き生かされる人間の宿命があり、それを超えるしかし静謐な、神秘がありえるということ、魂の高潔な雫がどこにも落ちているということに、人間性への揺らぎない信頼を引き起こす。

                   (野村岳也監督と知花さゆりさん)

一方で、情け容赦なくガマに毒ガスを撒き、火を放つ米軍人の姿がある。無垢な市民たちを空爆で殺す。徹底的に街を破壊する米軍の戦略はイラクやアフガニスタン戦争でも見せつけた。地獄から生還した少女たちも80歳を超える。60年以上も前の戦場体験を振り返る彼女たちの顔がアップされる。この間の人生の綾が表情に声にことばに滲み出る。人は悪夢を忘れることはできないかもしれない。しかし悪夢の中の清らかな雫もまた忘れることができないのである。

リウボウホールでたまたま知花さゆりさんにお会いした、監督にもお話を伺った。いっしょに写真を撮った。記念に!監督に上に書いた二点についてお聞きした。歯車を無視した2人の軍医の存在と赤子を戦場に捨てた沖縄人の姿である。小池隊長は彼女たちを糸洲豪から出して後青酸カリで自害している。中尉は生き延びてその後、ふじ学徒隊の碑の建立に力を尽くしたのだった。

【小池隊長と中尉の姿勢について、映像の中で隊長が戦争の敗北に触れた発言をしていたことなども、証言からわかる。彼らが命令系統をそのまま順守しなかったように思えることに対してお聞きした。またなぜ守ろうとしたのか、の問に対して、衛生兵など死ぬとわかっていて、豪から出さざるを得なかったからね。彼女たちを守らないといけないという思いがあったと思う、と監督。彼らは中国から沖縄に送られていますよね。南京などの虐殺を生き延びてきたのですよね。そうだね2つに分かれて、と監督はお話したが、中国戦線と沖縄との連動性はもうすでに書かれているのだろうとは思う。小池隊長個人について、いろいろとお調べになったと思いますが、どんな方だったのですか?あまり詳細はわからないというお返事だった。海軍壕で自決した大田さんと同様、沖縄民衆に思いを寄せた日本軍人の存在があったのは確かなようだ。東南アジアの戦場では何万人もの将兵が飢えで殺されたり、戦争の修羅の中で命を失っている。国の大きな歯車の機械的システムの中で殺されていったのである。そして大勢の一般民衆の犠牲が伴っている。日本の防波堤としての沖縄、その残酷な位置づけは変わらない。戦争を引き起こした政治体制・時勢・権欲・世界のシステム・諸々がまた迫ってくるようだ。そしてこれでもか、と夏が来ると戦後67年たっても戦争の悪夢がやってくる。人間が犯した地獄図絵は、いつまでも追いかけてくる。惨劇を二度と起こさないために!】

戦争の物語は多様に語られる。新たな物語が誕生した。

http://fujigakutotai.com/about/

********************************(他のブログからの転載です!)

『ふじ学徒隊』を観終わってから。
左から、脚本の城間あさみさん、監督の野村岳也さん、制作の澤岻健さん。野村監督とは、しばし立ち話をさせていただき
ました。貴重なエピソードを聞かせてくださり、ありがとうございました。




この映画を製作した海燕社のホームページはこちら。→http://www.kaiensha.jp/

***************(これも他のネット情報です!)

ふじ学徒隊は、
動員された25名中、戦死者が三名だけに留まったそうです。
何故、生き残った方が多かったのか。

ふじ学徒隊の配属先の小池部隊長が、解散命令を出したのは、六月二六日。
戦死者が約半数の他の学徒隊より、ずっと遅い解散命令。

そして、解散命令だけでなく、彼女達が受けた言葉が
「必ず、生き残れ。親元へ帰れ。絶対死んではならない。」
でした。

 **************:(ネットからの転載です!)

ふじ学徒隊

1945年、沖縄は史上最大の悲劇に遭遇した。沖縄戦である。わずか三ヶ月の間に二十万を越す人々(内、半数が県民)の命が奪われた。懐かしい街や村、美しい野や山は見るも無残な焦土と化した。
 あの時から66年、今は見事に復興した。しかし、永い歳月は戦争の記憶を人々の心から次第に消し去ろうとしている。
 2011年6月23日、那覇市大典寺で恒例の積徳高等女学校同窓会戦没者慰霊祭が行われた。終了後、会長新垣道子が挨拶した。同窓会の慰霊祭は今回で終りとしたい。一同老いて一番若い人が83才となる現実は如何ともし難い。全員寂として声もない。積徳高女は戦後廃校となったため、若い後継の同窓生がいないのである。戦争体験者は年ごとに姿を消している。今なんらかの形で記憶にとどめなければ貴重な戦争体験が歴史の闇に埋もれてしまうにちがいない。かつてふじ看護学徒隊25名が配属された山部隊第2野戦病院は豊見城城址にあり、ここが彼女たちの青春をかけた戦場であった。
 隣接した火番原に海軍の司令部壕が構築されていた。船を失った海兵は、軍命令により、ここで最後まで戦況報告電報を打ち続けるのである。野戦病院壕には、中部戦線から大勢の傷病兵が送りこまれ、凄絶な治療看護活動が続いた。戦況が悪化した二ヵ月後、南部の糸洲壕へ後退する。そして一月の後、解散命令が下り、まだ戦の続く壕外へと出されるのである。
 この作品は、16才の少女たちが生と死のはざまに生きた三ヶ月余の彼女たちの記憶の記録である。少女たち一人一人を通して、生きるとはどんなことか、死ぬとはどんなことかを考えたいと思う。その時、戦争がどんなに非情なものかが浮彫りになるであろう。


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