今朝は、町内会の一斉清掃で、4ヶ月振りに5時半前に起床しました。貧血があるものでちょっと辛い朝になりました。
プライベートな話で恐縮ですが、なんせ高血圧で薬を服用はしているのですが、赤血球や血色素が少ないようで、鉄分のサプリメント愛用を余儀なくされています。あとは、食事療法でこれらの値を上げて行くようになると思います。
ですので、新型コロナウイルス感染にならないように、十分に注意して過ごしています。
さて、今日の画像は、3月末日にこちら地元のアンズの花を撮っていましたが、その後、クルマで約10分くらいの所にある「典厩寺」(てんきゅうじ)と云うお寺さんへ移動を掛けてシダレ桜を撮って来ましたので、それをご紹介したいと思います。
まずは、閻魔大王像がにらみを効かせているお堂(左)と入口の山門(右)、その奥に見えるのがシダレ桜になっています。
photo 1
photo 2
画像1の手前が無料駐車場になっていて、山門をくぐると直ぐ左手に受付所があり、誰もおりませんが、一応入所料¥200を置くお皿がありますので、そこへご寄付のつもりで納めていただくようになります。
そして、中に入りますと、大きなシダレ桜が目の前に拡がります。
photo 3
photo 4
上の閻魔(えんま)大王像は、この近くの川中島合戦で、当時の戦死者約8,000余名の供養を行なうもので、松代藩八代藩主:真田幸貫(ゆきつら)公が建立したと云われています。
そして、境内を廻りながら、シダレ桜を撮って来ました。
photo 5
photo 6
photo 7
photo 8
photo 9
そして、この典厩寺(てんきゅうじ)の本堂の外観も撮ってありますので一部ご紹介したいと思います。
photo 10
photo 11
この典厩寺(てんきゅうじ)の創建は、1500年頃と伝えられていて、当時は戦乱の世で、越後(新潟)の上杉謙信公と甲斐(甲府)の武田信玄公が、領地争いの「川中島合戦」を数年に亘って戦っていて、その際に、武田信玄公の実弟:武田典厩信繁(てんきゅうのぶしげ)が、37歳の若さで戦死し、この寺に埋葬し弔ったのを機に、当時は鶴巣寺(かくそうじ)と称していた名前を、後になって松代藩初代藩主:真田信之公が武田家の重臣であったことから、武田典厩信繁の名前の部分をとって、この寺を典厩寺(てんきゅうじ)と改名して、以後、松代藩の武家寺として、管理してきたと言われています。
皆さんがよくご存知の真田信繁(幸村)公は、真田信之公の実弟にあたり、この「信繁」と云う名前も、武田典厩信繁からのものではないかと云う、そんな説もあるようです。
そして、本堂を撮影している足元にはこんな形のものが………、
photo 12
これの由来はちょっと分かりませんが、その後、若くして戦死した武田典厩信繁のお墓がありますので、手を合わせて来ました。
photo 13
photo 14
画像13の案内板は、文字が小さ過ぎて分からないと思いますが、武田典厩信繁の生い立ちから戦死までの生きざまを書かれています。
彼の戒名は、「松操院殿鶴山巣月大居士」となっています。
あの有名な「風林火山」の旗印とは……、
疾如風・・・・疾(と)きこと風の如く
徐如林・・・・徐(しず)かなること林の如く
侵掠如火・・・侵掠(しんりゃく)すること火の如し
不動如山・・・動かざること山の如し
この典厩寺(てんきゅうじ)は、上信越道・長野ICを降りて長野市街地方面に向かってから5~6分のところにあり、ここから川中島古戦場へは、ほんの2~3分のところに位置しています。
私の祖母の実家の菩提寺にもなっていますので、機会がございましたら、来年の桜が咲くころにいかがでしょうか?
プライベートな話で恐縮ですが、なんせ高血圧で薬を服用はしているのですが、赤血球や血色素が少ないようで、鉄分のサプリメント愛用を余儀なくされています。あとは、食事療法でこれらの値を上げて行くようになると思います。
ですので、新型コロナウイルス感染にならないように、十分に注意して過ごしています。
さて、今日の画像は、3月末日にこちら地元のアンズの花を撮っていましたが、その後、クルマで約10分くらいの所にある「典厩寺」(てんきゅうじ)と云うお寺さんへ移動を掛けてシダレ桜を撮って来ましたので、それをご紹介したいと思います。
まずは、閻魔大王像がにらみを効かせているお堂(左)と入口の山門(右)、その奥に見えるのがシダレ桜になっています。
photo 1
photo 2
画像1の手前が無料駐車場になっていて、山門をくぐると直ぐ左手に受付所があり、誰もおりませんが、一応入所料¥200を置くお皿がありますので、そこへご寄付のつもりで納めていただくようになります。
そして、中に入りますと、大きなシダレ桜が目の前に拡がります。
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上の閻魔(えんま)大王像は、この近くの川中島合戦で、当時の戦死者約8,000余名の供養を行なうもので、松代藩八代藩主:真田幸貫(ゆきつら)公が建立したと云われています。
そして、境内を廻りながら、シダレ桜を撮って来ました。
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そして、この典厩寺(てんきゅうじ)の本堂の外観も撮ってありますので一部ご紹介したいと思います。
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この典厩寺(てんきゅうじ)の創建は、1500年頃と伝えられていて、当時は戦乱の世で、越後(新潟)の上杉謙信公と甲斐(甲府)の武田信玄公が、領地争いの「川中島合戦」を数年に亘って戦っていて、その際に、武田信玄公の実弟:武田典厩信繁(てんきゅうのぶしげ)が、37歳の若さで戦死し、この寺に埋葬し弔ったのを機に、当時は鶴巣寺(かくそうじ)と称していた名前を、後になって松代藩初代藩主:真田信之公が武田家の重臣であったことから、武田典厩信繁の名前の部分をとって、この寺を典厩寺(てんきゅうじ)と改名して、以後、松代藩の武家寺として、管理してきたと言われています。
皆さんがよくご存知の真田信繁(幸村)公は、真田信之公の実弟にあたり、この「信繁」と云う名前も、武田典厩信繁からのものではないかと云う、そんな説もあるようです。
そして、本堂を撮影している足元にはこんな形のものが………、
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これの由来はちょっと分かりませんが、その後、若くして戦死した武田典厩信繁のお墓がありますので、手を合わせて来ました。
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画像13の案内板は、文字が小さ過ぎて分からないと思いますが、武田典厩信繁の生い立ちから戦死までの生きざまを書かれています。
彼の戒名は、「松操院殿鶴山巣月大居士」となっています。
あの有名な「風林火山」の旗印とは……、
疾如風・・・・疾(と)きこと風の如く
徐如林・・・・徐(しず)かなること林の如く
侵掠如火・・・侵掠(しんりゃく)すること火の如し
不動如山・・・動かざること山の如し
この典厩寺(てんきゅうじ)は、上信越道・長野ICを降りて長野市街地方面に向かってから5~6分のところにあり、ここから川中島古戦場へは、ほんの2~3分のところに位置しています。
私の祖母の実家の菩提寺にもなっていますので、機会がございましたら、来年の桜が咲くころにいかがでしょうか?