ドキュメンタリー「時の旅人-伊東マンショ 肖像画の謎-」上映会に行ってきました(2017.12.7)@イタリア文化会館
この日は第3回フォスコ・マライ―ニ賞授賞式に引き続き ドキュメンタリー「時の旅人-伊東マンショ 肖像画の謎-」上映会と鼎談を聞きました テレビ宮崎制作の番組は九州全土で放映されたのですが 今回東京ではまず ここイタリア文化会館での上映となりました
天正遣欧少年使節のひとり 伊東マンショの肖像画がミラノで発見されたとの報道があったのは2014年のことでした 2016年 ドメニコ・ティントレット作のこの肖像画が 東京国立博物館で特別展示され その機会にイタリア文化会館ではシンポジウムを開催しました
今回それに続くものとして 伊東マンショの出身地である宮崎のテレビ局 「テレビ宮崎」が制作した 肖像画にまつわる物語や伊東マンショの功績を描いたドキュメンタリー「時の旅人-伊東マンショ 肖像画の謎-」を上映し 上映後には 東京大学名誉教授小佐野重利氏 同作品のディレクター雪丸千彩子氏 肖像画発見の特報記事を担当した読売新聞社文化部長 前田恭二氏が鼎談しました
作品内容(テレビ宮崎)
450年ほど前 宮崎県西都市都於郡(とのこおり)に生まれた少年 伊東マンショ
伊東家当主の孫として生まれたマンショだが 8歳の時 一族が島津家との勢力争いに破れ 豊後(現在の大分県)へと敗走する
キリシタン大名・大友宗麟が治める豊後 マンショはそこでキリスト教に出会い 後にイエズス会が計画した「天正遣欧少年使節」の主席正使として 2人のローマ教皇に謁見する
そして 彼らは未だ知られていなかった「日本」や「日本人」の存在をヨーロッパに知らしめた
しかし マンショたちが帰国の途に着く頃 日本ではキリシタン弾圧が始まり 彼らの功績は日本の歴史の表舞台からは消え去ってしまった
日本初の外交官とも言うべき役割を果たしたマンショは 宮崎が誇る偉人の一人だが 彼の存在や功績 宮崎県出身であることを知る人は少ない
2014年 「イタリア・ミラノで伊東マンショの肖像画が発見された」とのニュースが報道され 2016年 宮崎での里帰り展が実現した
これまでのマンショの姿と言えば 16世紀当時の新聞(版画)やスケッチ画でしか偲ぶことは出来なかったが 今回発見された肖像画は 16歳のマンショの表情を生き生きと描いた油絵
肖像画は400年以上前 その時代を確かに生きたマンショのより人間らしい魅力 現実味が伝わってくる1枚だ
発表に至るまでには イタリア人女性研究者による5年にも及ぶ研究があったことも分かった
この肖像画はどのような過程を経てマンショだと突き止められたのか 使節4人の肖像画が描かれたという記録は残るものの 行方知れずとなっていた肖像画は 400年以上もの間どこにあったのか
そして誰が何のために描かせたのか…肖像画にまつわる物語や された謎を紐解きながら 時の人 伊東マンショの功績や 最新の研究結果に迫るドキュメンタリー番組
* この番組は「FNSドキュメンタリー大賞」ノミネート作品でした
* * *
この番組では 地元宮崎県からこのような人物が輩出されたことを誇りに思う地元の方々が出てきます 伊東マンショ(1570?~1612)がわずか8才で豊後落ちをしたその道を案内する地元のガイドの方 歴史研究家 あるいは子供たちがマンショの歌を歌いながら 手作りの兜をかぶりお祭りに参加するシーンに加えて(ローカル局の番組なので特にそちらをクローズアップした) 2014年にミラノで発見されたこのマンショの16才の若き頃の肖像画が どうやってマンショの肖像画だとわかり 誰が描いたのかがわかったか その奇跡を辿っています
それは この絵を保管するミラノ・トリヴルツィオ財団(La Fondazione Trivulzio)のパオラ・ディリコさんというイタリア人研究者がこの絵と出合ったことに始まります
西洋人ではない このfanciullo(少年)のまなざしに強く惹かれ 誰が描かれたのかをつきとめたいと研究を始めました
最初はフィリピン人かと思ったそうです ですが上司に日本研究者がおり 豊後の文字が解読されたことから急展開し 1585年という年号と場所が判明され 絵の裏側に「Mansio」とあったことから 伊東マンショの肖像画と確定されたとのこと
絵の特定って大変なのですよね...
16才でミラノに行った彼は 12才で2年半もかけて「天正遣欧少年使節」の主席正使として航行しました パオラさんの「自分の子ならジェラートを買いに ひとりではまだ行かせないような年の子どもが 国の代表として海外に行ったのです」との驚きの言葉が印象的でした
キャンバスの枠にはティントレットとのサインがあり 父親ヤコポが描き 息子ドメニコが襟や帽子等を手直ししたとのこと 当時ティントレットは黄色を描くのに鈴鉛黄を使っていたことからも特定されました
1585年にヴェネツィアを訪れた一行は 描かれたこの肖像画は 儀式のための大作の下絵として描かれましたが ヴェネツィアとバチカンとの対立により儀式用の大作が描かれなくなったことから 肖像画を売るために のちに襟を大きく描いたり帽子も手直しされたとのこと
さらに この絵はティントレット公房で描かれて ヴェネツィアからカルビオ侯爵(スペイン人)の手にわたり 彼のローマ・ナポリ駐在にも絵は付き添い やがて侯爵の死後に他の膨大な作品とともに競売にかけられ フィレンツェの貴族が競り落とした時は名前も「少年の絵」というくらいしかなく やがてその貴族の娘がミラノに嫁入りする時の嫁入り道具のひとつとして輿入れリストにあったという 400年あまりの絵の来歴に固唾をのみました... 日本よりもヨーロッパの方が絵の来歴が確実にたどれるのですね
パオラさんが番組のラストで「旅人だったマンショは 絵になってからも旅人だったのですね 運命ですね...」とつぶやくところで終わっています
そしてまた マンショ自身も 宮崎に生まれて8才で豊後(大分)落ち 16才で天正遣欧少年使節としてヨーロッパに行き 帰国後は 1587年の豊臣秀吉によるバテレン追放令発布等で 43才で病死との人生を辿ります
若いうちにルネサンス期のヨーロッパをこの目で見て 帰国後に布教に力を尽くすはずが 時代の転換期の中で数奇な運命をたどったのですね...
鼎談では 絵の発見を特報記事にされた読売新聞文化部長 番組を制作したテレビ宮崎のディレクターのお二人が 東大名誉教授の小佐野重利氏の司会により 番組や特報記事制作にまつわる様々なお話をしてくださいました
貴重な番組とお話が聞けて 大変嬉しく思います 素晴らしいイベントをありがとうございました
開催のお知らせは こちら
2018年1月10日(水)NHK BSプレミアムで「400年後の真実~慶長遣欧使節の謎に迫る~」が放送されたそうです ← 見逃した~...
* 写真は 富士美術館で開催された「遥かなるルネサンス」展のチラシ 右が伊藤マンショの肖像画
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この日は第3回フォスコ・マライ―ニ賞授賞式に引き続き ドキュメンタリー「時の旅人-伊東マンショ 肖像画の謎-」上映会と鼎談を聞きました テレビ宮崎制作の番組は九州全土で放映されたのですが 今回東京ではまず ここイタリア文化会館での上映となりました
天正遣欧少年使節のひとり 伊東マンショの肖像画がミラノで発見されたとの報道があったのは2014年のことでした 2016年 ドメニコ・ティントレット作のこの肖像画が 東京国立博物館で特別展示され その機会にイタリア文化会館ではシンポジウムを開催しました
今回それに続くものとして 伊東マンショの出身地である宮崎のテレビ局 「テレビ宮崎」が制作した 肖像画にまつわる物語や伊東マンショの功績を描いたドキュメンタリー「時の旅人-伊東マンショ 肖像画の謎-」を上映し 上映後には 東京大学名誉教授小佐野重利氏 同作品のディレクター雪丸千彩子氏 肖像画発見の特報記事を担当した読売新聞社文化部長 前田恭二氏が鼎談しました
作品内容(テレビ宮崎)
450年ほど前 宮崎県西都市都於郡(とのこおり)に生まれた少年 伊東マンショ
伊東家当主の孫として生まれたマンショだが 8歳の時 一族が島津家との勢力争いに破れ 豊後(現在の大分県)へと敗走する
キリシタン大名・大友宗麟が治める豊後 マンショはそこでキリスト教に出会い 後にイエズス会が計画した「天正遣欧少年使節」の主席正使として 2人のローマ教皇に謁見する
そして 彼らは未だ知られていなかった「日本」や「日本人」の存在をヨーロッパに知らしめた
しかし マンショたちが帰国の途に着く頃 日本ではキリシタン弾圧が始まり 彼らの功績は日本の歴史の表舞台からは消え去ってしまった
日本初の外交官とも言うべき役割を果たしたマンショは 宮崎が誇る偉人の一人だが 彼の存在や功績 宮崎県出身であることを知る人は少ない
2014年 「イタリア・ミラノで伊東マンショの肖像画が発見された」とのニュースが報道され 2016年 宮崎での里帰り展が実現した
これまでのマンショの姿と言えば 16世紀当時の新聞(版画)やスケッチ画でしか偲ぶことは出来なかったが 今回発見された肖像画は 16歳のマンショの表情を生き生きと描いた油絵
肖像画は400年以上前 その時代を確かに生きたマンショのより人間らしい魅力 現実味が伝わってくる1枚だ
発表に至るまでには イタリア人女性研究者による5年にも及ぶ研究があったことも分かった
この肖像画はどのような過程を経てマンショだと突き止められたのか 使節4人の肖像画が描かれたという記録は残るものの 行方知れずとなっていた肖像画は 400年以上もの間どこにあったのか
そして誰が何のために描かせたのか…肖像画にまつわる物語や された謎を紐解きながら 時の人 伊東マンショの功績や 最新の研究結果に迫るドキュメンタリー番組
* この番組は「FNSドキュメンタリー大賞」ノミネート作品でした
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この番組では 地元宮崎県からこのような人物が輩出されたことを誇りに思う地元の方々が出てきます 伊東マンショ(1570?~1612)がわずか8才で豊後落ちをしたその道を案内する地元のガイドの方 歴史研究家 あるいは子供たちがマンショの歌を歌いながら 手作りの兜をかぶりお祭りに参加するシーンに加えて(ローカル局の番組なので特にそちらをクローズアップした) 2014年にミラノで発見されたこのマンショの16才の若き頃の肖像画が どうやってマンショの肖像画だとわかり 誰が描いたのかがわかったか その奇跡を辿っています
それは この絵を保管するミラノ・トリヴルツィオ財団(La Fondazione Trivulzio)のパオラ・ディリコさんというイタリア人研究者がこの絵と出合ったことに始まります
西洋人ではない このfanciullo(少年)のまなざしに強く惹かれ 誰が描かれたのかをつきとめたいと研究を始めました
最初はフィリピン人かと思ったそうです ですが上司に日本研究者がおり 豊後の文字が解読されたことから急展開し 1585年という年号と場所が判明され 絵の裏側に「Mansio」とあったことから 伊東マンショの肖像画と確定されたとのこと
絵の特定って大変なのですよね...
16才でミラノに行った彼は 12才で2年半もかけて「天正遣欧少年使節」の主席正使として航行しました パオラさんの「自分の子ならジェラートを買いに ひとりではまだ行かせないような年の子どもが 国の代表として海外に行ったのです」との驚きの言葉が印象的でした
キャンバスの枠にはティントレットとのサインがあり 父親ヤコポが描き 息子ドメニコが襟や帽子等を手直ししたとのこと 当時ティントレットは黄色を描くのに鈴鉛黄を使っていたことからも特定されました
1585年にヴェネツィアを訪れた一行は 描かれたこの肖像画は 儀式のための大作の下絵として描かれましたが ヴェネツィアとバチカンとの対立により儀式用の大作が描かれなくなったことから 肖像画を売るために のちに襟を大きく描いたり帽子も手直しされたとのこと
さらに この絵はティントレット公房で描かれて ヴェネツィアからカルビオ侯爵(スペイン人)の手にわたり 彼のローマ・ナポリ駐在にも絵は付き添い やがて侯爵の死後に他の膨大な作品とともに競売にかけられ フィレンツェの貴族が競り落とした時は名前も「少年の絵」というくらいしかなく やがてその貴族の娘がミラノに嫁入りする時の嫁入り道具のひとつとして輿入れリストにあったという 400年あまりの絵の来歴に固唾をのみました... 日本よりもヨーロッパの方が絵の来歴が確実にたどれるのですね
パオラさんが番組のラストで「旅人だったマンショは 絵になってからも旅人だったのですね 運命ですね...」とつぶやくところで終わっています
そしてまた マンショ自身も 宮崎に生まれて8才で豊後(大分)落ち 16才で天正遣欧少年使節としてヨーロッパに行き 帰国後は 1587年の豊臣秀吉によるバテレン追放令発布等で 43才で病死との人生を辿ります
若いうちにルネサンス期のヨーロッパをこの目で見て 帰国後に布教に力を尽くすはずが 時代の転換期の中で数奇な運命をたどったのですね...
鼎談では 絵の発見を特報記事にされた読売新聞文化部長 番組を制作したテレビ宮崎のディレクターのお二人が 東大名誉教授の小佐野重利氏の司会により 番組や特報記事制作にまつわる様々なお話をしてくださいました
貴重な番組とお話が聞けて 大変嬉しく思います 素晴らしいイベントをありがとうございました
開催のお知らせは こちら
2018年1月10日(水)NHK BSプレミアムで「400年後の真実~慶長遣欧使節の謎に迫る~」が放送されたそうです ← 見逃した~...
* 写真は 富士美術館で開催された「遥かなるルネサンス」展のチラシ 右が伊藤マンショの肖像画
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