日伊文化交流会

サークル「日伊文化交流会」は板橋区で生まれ、元東都生協登録サークルとしてイタリア好きの人たちが集まり楽しく活動しています

「ティツィアーノとヴェネツィア派展」開催のお知らせ(2017.1.21~4.2)@東京都美術館(上野公園))+ティツィアーノについて

2016年12月18日 | イタリアの美術館・博物館
「ティツィアーノとヴェネツィア派展」開催のお知らせ(2017.1.21~4.2)@東京都美術館(上野公園)+ティツィアーノについて



日伊国交樹立150周年記念「ティツィアーノとヴェネツィア派展」


2017年1月21日(土) ― 4月2日(日)
 9:30~17:30
※金曜は20:00まで
※入室は閉室の30分前まで

於 東京都美術館 企画展示室 (上野)

休室日: 月曜日(ただし、3月20日[月・祝]、27日[月]は開室

みどころ:
ヴェネツィアは 総督(ドージェ)を頂点とする共和制国家として強大な力をもち、経済的には海洋貿易によって繁栄したことで知られます。
富と国際的な政治力、そして東西文化が交わる特異な立地条件とがあいまって、水の都は芸術の中心地へと変貌し、15世紀から16世紀にかけて美術の黄金時代を迎えます。

ルネサンス時代のヴェネツィアを活動の拠点とした芸術家たちは、「ヴェネツィア派」と総称されます
ヴェネツィア派に分類される画家たちは、おもにベッリーニ一族の工房を中核に形成されました

彼らの工房で育った多くの優れた画家たちのなかでも、ティツィアーノは もっとも才能ある画家の一人といえるでしょう。
ティツィアーノは溌剌とした官能性をそなえた人物と、輝くような色彩で名をはせ、同時代や後世の画家たちに多大な影響を与えました。

第1章:   ヴェネツィア・ルネサンス初期

第2章:   ティツィアーノの時代

第3章:   ティツィアーノからティントレット、ヴェロネーゼへ


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詳しくは こちら


* * *

ティツィアーノの生涯

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio1488年/1490年頃~1576年8月27日)は 盛期ルネサンスのイタリア人画家 ヴェネツィア派で最も重要な画家の一人である 
ヴェネツィア共和国ベッルーノ近郊の ピエーヴェ・ディ・カドーレに生まれ その生誕地から「ダ・カドーレ (da Cadore)」と呼ばれることもあった

ティツィアーノは同時代の人々から ダンテ・アリギエーリの著作『神曲』からの引用である『星々を従える太陽』と呼ばれていた
肖像 風景 古代神話 宗教などあらゆる絵画分野に秀で ヴェネツィア派でもっとも重要なイタリア人画家の一人となっている
ティツィアーノの絵画技法は 筆使いと色彩感覚に特徴があり イタリアルネサンスの芸術家だけではなく 次世代以降の西洋絵画にも大きな影響を与えた

ティツィアーノは長命な画家で その作風は年代とともに大きく変化しているが その生涯を通じて独特の色彩感覚は変わることがなかった
円熟期のティツィアーノの絵画は色鮮やかとはいえないものもあるが 初期の作品の色調は明るく 奔放な筆使いと繊細で多様な色使いは それまでの西洋絵画に前例のない革新的なものだった

初期

ティツィアーノは ピエーヴェ・ディ・カドーレ城の管理者で地方鉱山の責任者 著名な評議員で軍人でもあった グレゴリオ・ヴェチェッリオと 妻ルチアの長男として生まれた
祖父は公証人で ヴェネツィア共和国統治下のこの地方では名家の家系だった

10歳から12歳くらいのときに ティツィアーノと弟のフランチェスコは 画家の内弟子になるために ヴェネツィアの叔父のもとへと送られた

そして一家の友人で画家のセバスチアーノ・ツッカートが 二人のために ヴェネツィア有数の画家 ジョヴァンニ・ベリーニのもとで修行できるよう手配している

ティツィアーノはこのヴェネツィアで ジョヴァンニ・パルマロレンツォ・ロットセバスティアーノ・デル・ピオンボ、そしてジョルジョーネら 年齢の近い芸術家たちと出会うことになる
弟のフランチェスコ (Francesco Vecellio) も 後にヴェネツィアで成功した画家になった

ティツィアーノは ジョルジョーネの助手を務めているが すでに当時のティツィアーノの作品に対する評価は高いものだった
ジョルジョーネと共同で制作したフォンダコ・デイ・テデスキ(ドイツ商人館 (Fondaco dei Tedeschi))の外装を飾るフレスコ画(破損しておりほとんど現存していない)など 二人の力量は拮抗し 共同作業が互いに好影響を与えていた
この時期の二人の絵画の判別は 現在でも学術的論争になっている

1510年ジョルジョーネが夭折した後も ティツィアーノはジョルジョーネ風の作品を描いてはいるが すでに大胆で表現力豊かな独自の作風を確立していた

フレスコ画におけるティツィアーノの絵画技術は 1511年に描かれたパドヴァのカルメル会修道院とサンタントニオ信者会に残る『金門での出会い』や パドヴァの守護聖人アントニオの生涯の三場面を題材にした作品などで見ることができる

1512年に ティツィアーノはパドヴァからヴェネツィアに戻ってから S.サムエレのカナル・グランデに工房を構えているが 現在その正確な場所は伝わっていない

1513年には 前途有望あるいはすでに功名を成し遂げた芸術家が熱望するサンセリア (La Sanseria) と呼ばれる専売仲介特権を フォンダコ・デイ・テデスキから得た

さらに国家規模の絵画制作の最高責任者に任ぜられて ベリーニが未完成のまま残した ドゥカーレ宮殿大議会堂の絵画を完成させている
ベリーニが死去した1516年以前から 専売仲介特権から収入が上がるようになり 銀貨20枚という十分な年金を受け取るようになった

さらにドゥカーレ宮殿の絵画制作を継続するという条件で 一部租税を免除され 作品を仕上げるごとに銀貨8枚で買い上げられた
ドゥカーレ宮殿のために描かれた絵画で現存しているのは 5点のみである

1516年から1530年にかけての時期は ティツィアーノが初期のころのジョルジョーネ風作品から より大規模で複雑な構成の作品を それまでにない作風で描こうと試みた 技能熟練と熟成の時代といわれる

ジョルジョーネは1510年に ベリーニは1516年に死去し ヴェネツィア派にはすでにティツィアーノに比肩する画家はいなくなり その後60年間にわたって 誰もが認めるヴェネツィア絵画の第一人者であり続けた

1516年サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂の依頼で 現在ティツィアーノの代表作ともいわれる祭壇画『聖母被昇天』を描き始めた
非凡な色彩感覚に彩られたこの絵画は それまでのイタリア絵画でもまれなほど大規模な作品で 大評判となった
『聖母被昇天』は三階層の構図で 世俗の地上と神聖な天界という二つの異なる場面が 同時に表現されている
この絵画はティツィアーノの作品の中で もっとも計算されつくした絵画といわれ 独自の創造力と作風に満ちた傑作とされており 完成に2年かかっている

この時代のティツィアーノには 神話をモチーフにした3点の大作がある
現在プラド美術館が所蔵する『ヴィーナスへの奉献』(1519年) 『アンドロス島の人々』(1523年 - 1524年頃)と ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する『バッカスとアリアドネ』(1520年 - 1523年)である

「おそらくルネサンス期における もっとも美しい「異教徒風 (neo-pagan)」の あるいは「アレクサンドリア風 (Alexandrianism)」の絵画群といえる
幾度となく手本とされた作品だが ルーベンスでさえこれらの作品を超えることはできなかった」といわれる

ほかに 高級娼婦を描いたとされるウフィツィ美術館所蔵の『フローラ』(1515年頃) ルーブル美術館所蔵の『鏡の前の女』(1513年 - 1515年頃)など 上半身のみを描いた肖像画はこの時代を最後に描かれた作品である



ティツィアーノの妻セシリアは ティツィアーノの故郷ピエーヴェ・ディ・カドーレ出身の理髪師の年若い娘で 5年にわたってジョルジョーネ家の家政を取り仕切る内縁関係にあった
ティツィアーノとの間には すでにポンポーニオオラツィオの二人の息子が生れていたが 1525年にセシリアは重病にかかってしまう
ティツィアーノは二人の息子を法的に認知するために セシリアと正式に結婚した
二人の関係は良好で セシリアは健康を取り戻し二人の娘を産んだが ラヴィニアと名付けられた娘だけが成人した
ティツィアーノは次男のオラツィオを可愛がり 後にオラツィオはティツィアーノの助手を務めることになる

1530年8月に セシリアはラヴィニア出産時の産褥で死去した 
二人の幼児と一人の乳児を抱えたティツィアーノは家を変え ピエーヴェ・ディ・カドーレにいた妹のオルサを説得して 家事を任せるために呼び寄せた

ビリ・グランデにあったティツィアーノの邸宅の正確な場所は判明していないが ヴェネツィア中心部から離れた海沿いの瀟洒な郊外の住宅地で 美しい庭園のあるムラノ島が一望できる場所だった

ティツィアーノは1526年ごろに 作家・詩人で 当時の年代記にも有力で独創的な人物として紹介されているピエトロ・アレティーノと深い親交を持った
ティツィアーノはアレティーノの肖像画を描き マントヴァ侯爵フェデリーコ2世・ゴンザーガへと送っている


後期


1530年から1550年にかけての時期に ティツィアーノは『聖ペテロの殉教』に見られるような 劇的で物語性の強い作風を確立した
ヴェネツィア共和国政府は ドゥカーレ宮殿の絵画制作が遅々として進まないことに不満を持ち 1538年にそれまでティツィアーノに支払った賃金の返還を求めている

そしてティツィアーノの後継として ティツィアーノの競争相手とみなれてきたイル・ポルデノーネ (Il Pordenone) を任命した

しかしながらこの年の終わりにポルデノーネは死去し 議会堂の『カドーレの戦い』を仕上げていたティツィアーノが 宮殿の絵画制作者に再度任命された

この作品はティツィアーノが ラファエロの『コンスタンティンの戦い』に刺激を受けて描いた 荒々しく壮大な絵画という意味で 非常に重要な作品だった
さらにどちらも未完成に終わったが ミケランジェロの『カッシーナの戦い』や レオナルド・ダ・ヴィンチの『アンギアーリの戦い』も この作品に影響を与えていた可能性もあった

しかしながら1577年にドゥカーレ宮殿は大火に遭い 『カドーレの戦い』をはじめ ヴェネツィアの芸術家たちの貴重な絵画は全て焼失してしまっている

この時代にティツィアーノはローマを訪れており 横たわるヴィーナスをモチーフとした連作を描き始めている
ウフィツィ美術館所蔵の『ウルビーノのヴィーナス』(2008年に来日)と『愛のヴィーナス』 プラド美術館所蔵の『ヴィーナスとオルガン奏者とキューピッド』である
これらの絵画は ローマで古代彫刻を見聞したティツィアーノが その表現手法やアイディアに影響を受けて制作したものである

ティツィアーノはキャリア初期から 現在ピッティ宮殿のパラティーナ美術館が所蔵する1514年ごろの『ラ・ベッラ (La Bella)』のような優れた肖像画を描いた
君主、元首、枢機卿、修道僧、芸術家、作家など 様々な階級の人々を描いた作品が残っている

「多くのモデルの特徴をつかみ その表情を描ききることに成功した画家は他にはいない」とも言われる
肖像画家としてのティツィアーノは 後年のレンブラントやベラスケスと比較されることがあり とくに人物の内面描写ではレンブラント 明快さではベラスケスと比較されることが多い

後期の肖像画では ナポリの国立カポディモンテ美術館が所蔵する1543年の『教皇パウロ3世の肖像』(今回来日)と 1546年の『パウロ3世とその孫たち』 



また パラティーナ美術館が所蔵する1545年の『ピエトロ・アレティーノの肖像』 プラド美術館が所蔵する『ポルトガル王女エレオノーラの肖像』と 神聖ローマ皇帝カール5世を描いた連作の一つ 1533年の『皇帝カール5世と猟犬』などで ティツィアーノの絵画技術を確認でき そして1548年の『カール5世騎馬像』に表現された紫色の調和は 絵画の頂点を極めた作品といえる


当時からのティツィアーノの専門技量と世界的な名声に比肩するのは 同年代のラファエロ ミケランジェロと 後年のルーベンスだけである

ティツィアーノは故郷のカドーレを毎年のように訪れており 故郷では鷹揚で影響力のある著名人だった

ティツィアーノは1546年にローマを訪れて「市の鍵賞 (Freedom of the City)」を受けており これは1537年にミケランジェロが受賞して以来のことだった

同じころにセバスティアーノ・デル・ピオンボの死去に伴い空職になっていた ローマ教皇の書簡に押す印章を所持する「鉛の職」という 非常に実入りのいい役職を与えられることになった
この役職のために聖職に就く準備も進められていたが 1547年にヴェネツィアを離れてアウクスブルクでローマ皇帝カール5世たちの肖像画を描くよう命令されたため この話は無効になっている

1550年にスペイン王フェリペ2世を描いた肖像画がイングランドへ送られ フェリペ2世とイングランド女王メアリー1世との結婚に大きな役割を果たした。


晩年


ティツィアーノは 1550年から死去する1576年までの16年間 肖像画家としてフェリペ2世のもとで過ごすことが多かった
年齢とともにますます 内省的で止まるところを知らない完全主義者になり 1枚の作品を仕上げるのに10年以上かけることもあった
倦むことなく何度も作品に手を加え つねに新しい表現を追及した

また 弟子が模写したティツィアーノ自身の初期の作品に 自ら手を加えて完成させており このことが後年になって絵画の作者の特定や 連作の制作順序など諸問題を引き起こすことにつながっている
さらに弟子だけではなく 他の芸術家が制作した模写や贋作も広く出回ってしまっている


フェリペ2世の依頼で ティツィアーノは宗教画と 「ポエジア」と呼ばれる オウィディウスの『変身物語』に題材をとった 一連の古代神話連作絵画を制作した
現在「ポエジア」の作品はティツィアーノの最高傑作とされている

神話に仮託した裸婦が描かれた絵画が多かったこともあり フェリペ2世からこれらの絵画を相続した子孫は その多くを贈答品として諸国へ贈ったため 現在スペインには「ポエジア」は2点しか存在しない
プラド美術館所蔵の『ヴィーナスとアドニス』と『ダナエ』で どちらも1553年ごろに描かれた作品である




ロンドンのナショナル・ギャラリーとスコットランド国立美術館が共同所有する『ディアナとアクタイオン』と『ディアナとカリスト』は 1559年に完成したと考えられている

ロンドンのウォレス・コレクション所蔵で損傷が激しい『ペルセウスとアンドロメダ』 ボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館所蔵の『エウロペの略奪』は 1562年に引き渡された
ただし現在ロンドンのナショナルギャラリー所蔵の『アクタイオンの死』は 1559年に制作が開始され 長期にわたって制作が続けられたものの 結局未完に終わった作品である

ティツィアーノの死後にアトリエに残されていたといわれる絵画は 近年になるまであまり知られていなかった
生々しい表現で 人によっては受け付けないであろう絵画が多く チェコのクロムニェジーシュ美術館所蔵の『皮をはがれるマルシュアス』 ケンブリッジ大学フィッツウィリアム美術館所蔵の『ルクレツィアの凌辱』などがある

ティツィアーノは1555年以前からトリエント公会議に臨席しており ルーブル美術館に会議風景のスケッチがある
親友だったアレティーノが1555年に突然死去し 他にも知人の建築家ヤーコポ・サンソヴィーノが1570年に死去するなど その晩年には友人知人の死が相次いでいる

1565年9月にティツィアーノはカドーレを訪れ 弟子とともに教会の装飾を手がけた

1560年ごろに ティツィアーノは 聖母子とともに聖ルカと聖カタリナが描かれた『聖会話』を制作した

ティツィアーノは死去する寸前まで絵画の注文を受け続けた
自身の墓所をサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂の礼拝堂と決め 埋葬してもらう返礼として 『ピエタ』を献納することを申し出ている
その後ティツィアーノは 死去するまでのほとんどの期間を故郷のカドーレで過ごした

ティツィアーノは 1576年8月27日にペストにより死去した
生前の希望通りにサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂に埋葬され 未完成だった『ピエタ』は パルマ・ジョヴァーネ (Palma Giovane) が完成させている

自身の大作『聖母被昇天』のそばに埋葬されている

 (wikipediaより)


作品は こちら

    * * *

追加: ティツィアーノの時代と他の作家を比べてみました:

ジョヴァンニ・ベリーニ
(1430年頃 - 1516年)←ティツィアーノのお師匠 (ジョルジォーネもベリーニの弟子だが33才で夭折)

サンドロ・ボッティチェッリ
(Sandro Botticelli, 1445年3月1日 - 1510年5月17日)

レオナルド・ダ・ヴィンチ
( Leonardo da Vinci)1452年4月15日 - 1519年5月2日

ミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニ
(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni、1475年3月6日 - 1564年2月18日)

ラファエロ・サンティ
(Raffaello Santi) 1483年4月6日 - 1520年4月6日)

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ
(Tiziano Vecellio、1488年/1490年頃~1576年8月27日)

ティントレット
(1518年 - 1594年)←わずか10日ほどティツィアーノに弟子入りしたティントレットは、ティツィアーノの作品に見られる寓意表現をさらに推し進め、発展させた

さらにルネサンス期のイタリア絵画がもたらした革新は、全ヨーロッパに広まっていった


*ルネッサンスは ローマやフィレンツェだけではありません ヴェネツィアに息づいたヴェネツィア派の絵画を 日伊国交150周年のラストに ぜひご覧ください!!

2016年はたくさんの展覧会が目白押しで大変でしたネ(笑) 年が明けたら気分新たに(?) 私たちもサークルの皆で  ティツィアーノ展見学会を開催予定です(^_^)v

詳しくは こちら



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