ローマ歴史講座30 「 La dinastia costantiniana ~ コンスタンティヌス朝 ローマ帝国皇帝たち ~」に参加しました(2020.12.20)@高円寺ピアッツアイタリア
もうじきローマ歴史講座も終わりに近くなり 2020年最後の回となりました 最後に近づくにつれて参加者が増えてきますね この日はコンスタンティヌス朝の 主にコンスタンティヌス1世の子供たちと ユリアヌスをやりました
337年にコンスタンティヌス1世が亡くなってから 4人の皇帝が残りました
西のコンスタンティヌス2世(Costantino Ⅱ)←二男 コンスタンス1世(CostanteⅠ)←三男 東のコンスタンティウス2世(Costanzo Ⅱ)←二男 ダルマティウス(Dalmazio)←甥 です
(一族でよく似た名前でとても紛らわしいのですが 家族が継承する時代とのことで 名前も貨幣に刻まれた顔も似ていたそうです)
コンスタンティヌス2世(CostantinoⅡ)は 326年に 異母兄弟(fraellastro)つまり父の先妻の息子のクリスプス(Crispo)が殺されたため 長男となりました
ところが コンスタンティヌスⅡ世の命により 兄弟3人のパワーを脅かすであろう コンスタンティヌス王朝(dinastia)の男性の親戚(コンスタンティヌス1世の父親コンスタンティウス・クロルスと マクシミアヌスの義理の娘テオドラとの間に生まれた 名門中名門の子孫たち)を殺せという粛清(purga)が実行に移され その中に甥のダルマティウスも含まれていたのですね(337)
当時はコンスタンス1世(CostanteⅠ)はまだ若く粛清を免れ コンスタンティヌス2世(CostantinoⅡ)も皇帝になってわずか3年 340年に 23才で 弟コンスタンス1世との領土争いによって アクィレイア近くで殺されて川に棄てられ ダムナティオ・メモリアエ(記憶の破壊)を受けました
こうして東西に2人の皇帝となりました (コンスタンス1世とコンスタンティウス2世)
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337年に西の皇帝となったコンスタンス1世(Costante Ⅰ)は若いものの才能もありましたが 人民からも軍からもあまり愛されていませんでした
マグネンティウス(Magnenzio) (generale dux)は簒奪者 (usurpatore) でした そのマグネンティウスを皇帝にすることを コンスタンス1世(CostanteⅠ)は 親族のみがCesareになれると反対するのですね でもその親族は皆殺されてしまっていて...
350年にマグネンティウスは30才前後だったコンスタンス1世を殺します コンスタンス1世は祖母ヘレナに捧げられたピレネー山脈にあるoppidum Helena教会に隠れますが 引きずり出され討たれたそうです
けれどその後 マグネンティウスはコンスタンス1世の兄である共同皇帝コンスタンティウス2世と対立します
351年 コンスタンティウス2世(CostanzoⅡ)は要塞(カストルム)に戻る時 マグネンティウスの騎兵隊が裏切り マグネンティウス(Magnenzio)は大負けします
そしてマグネンティウスの弟のデケンティウス(Decenzio)は西へ Londrum(今のロンドン)で自殺します 当時は自殺は今とは異なり プライドを守るための行動とされていたそうです
マグネンティウスはイタリアへ敗走し353年リヨンで自殺します その後コンスタンス1世は神格化された(divinizzato)とのこと
当時 アリウス派(arianesimo)とニカイア派(niceno)の対立があり 今ではたいしたことのないように思えますが 当時はニカイア公会議(Concilio di Nicea I)で 激しい論戦が交わされ 東西の違いにまで発展してゆきました
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さて コンスタンティウス2世(CostanzoⅡ)は30年間ほどパワーを持ち在位も長かったです
キリスト教を優遇し 猜疑心の強さから粛清をたびたび行ないました
父と同様熱心なキリスト教徒でしたが 父帝とは反対にアリウス派(l’Arianesimo)を支持し 司教アタナシウス(Vescovo Atanasio)を迫害しました
ササン朝ペルシャとの対立があり シャープール2世( Sapore Ⅱ)という王とのトラブルを抱えていました
追いつめられた簒奪者マグネンティウスが353年に自殺したため コンスタンティウス2世はローマ帝国で唯一の正帝となったのですね
東方正帝の期間はアンティオキアにいて そして唯一の正帝となってからはイタリア本土のメディオラヌム(ミラノ)を自身の拠点としました
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ユリアヌス(Giuliano)
コンスタンティヌス1世の甥(異母兄弟の子供)に当たります
最後の「異教徒皇帝」として知られ 異教復興を掲げてキリスト教への優遇を改めたため「棄教者(apostata/古代ギリシャ語)」とも呼ばれています
頭もよく哲学的で ハドリアヌスのような立派な皇帝でした
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コンスタンティヌス1世が337年に亡くなったあと 父であった西方正帝コンスタンティヌス・クロルス(Costanzo Cloro)の男系親族と妻テオドラは粛清されますが ユリアヌスはわずか6才だったため免れました
また ユリアヌスの腹違いのいとこのガッルス(Gallo)は 病弱で子供だったため殺されませんでした
そしてガリアに行かされ 妹は熱で亡くなります
ガッルスの政治はひどく 従妹であるコンスタンティウス2世はガッルスを処刑(esecuzione)してしまいます
ユリアヌス(Giuliano)は家庭教師であった宦官マルドニオス(Mardonio)によって 古代ギリシア・ローマの古典や神話も教えられました
341年 コンスタンティウス2世によって 11才だったユリアヌスとガッルスは6年間 皇帝領のマケッルム(Macellum)に送られ その名が意味する「囲い地」のとおり外部との接触は極端に制限され 奴隷の仕事を手伝い読書をしながら6年間を過ごしたそうです
348年 ユリアヌスはコンスタンティノープルに戻り 20才くらいでキリスト教に対する態度も変わったそうです
キリスト教への優遇政策を廃止し 「異端」とされた者たちに恩赦を与え キリスト教内部の対立を喚起しました
異教祭儀の整備を進め ユダヤ教のエルサレム神殿の再建許可を出しました
354年 ガッルスが亡くなり ユリアヌスが疑いをかけられますが コンスタンティウス2世の皇妃エウセビア (Eusebia) が唯一の擁護者として皇帝に働きかけ 疑いが晴れました
355年 副帝就任と同時にコンスタンティウスの妹ヘレナ(Helena)という 従姉にあたる女性と結婚しました
トルク(torcere)といって 首に巻く大きなネックレスをつけて それは取れなかったのだそうです 嫁にもつけますが離婚したらはずすのだそうです 参加した私たちは初めて知りました!
361年 小アジアにてコンスタンティヌス2世は熱で亡くなります 皇帝になって24年間 44才でした
臨終の際、後継者としてユリアヌスを指名したといわれます
でも 363年のペルシア遠征で ユリアヌスはクテシフォンで テントの中で鎧を脱いでいた時に 列の最後にトラブルが起きてその服装のままで飛び出し 脇を投げ槍で刺されて亡くなってしまうのですね
兄弟間での帝位争いが続いた時代でした...
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スペインのvilla romana di Centocellesはコンスタンス1世の墓を置く霊廟が供えられ 世界遺産にもなっているそうです
コンスタンティウス2世(Costanzo Ⅱ)は わざわざアレキサンドリアから運んできたオベリスク(l'obelisco)をチルコ・マッシモ(Circo Massimo)に建てさせます
そのオベリスクは 今はサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂( basilica di San Giovanni in Laterano)の前にあるとのこと
写真: トリ―アの皇帝浴場
ローマ皇帝一覧は こちら
ピアッツアイタリアのローマ歴史講座は こちら
マニアックな講座を開催してくださるピアッツァイタリア様に 心よりお礼申し上げます
また ビザンツ帝国についても引き続き教えてくださることになったため 「ローマ史再考: なぜ「首都」コンスタンティノープルが生まれたのか (NHKブックス 1265)」(田中創著)という本を読みました ちょうど習ったところが出てきて大変参考になりました💕
第1回から欠かさず参加しています リポートはまたそのうち♪
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