「天正少年使節とイタリア: 世界布教時代のイタリア美術」に参加して 思いを受け継ぐ大切さを感じました(2018.9.22)@星美学園短期大学イタリア文化講座
「天正少年使節とイタリア」という文化講座に出て 研究者たちの 思いを受け継ぐ大切さを感じてきました それなくしては歴史は動かないのだと...
1582(天正10)年に長崎を出航した天正遣欧少年使節は 極東におけるカトリック宣教成功の生き証人としてヨーロッパ諸国を巡り 1585年3月にローマ教皇への謁見を果たしました
4人の少年たち(fanciulli)は 16世紀後半のイタリアでどんな体験をし 何を見てきたのでしょうか
彼らの旅程を辿りながら 当時最先端のイタリア美術について庭園から絵画 工芸まで幅広く解説します
織田信長からの贈物として教皇に献上された「安土城屛風」の行方についてもお話しします:
講座ではまず 天正遣欧少年使節(天正少年使節)について説明していただきました
イエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが 有馬のセミナリオ修了生たちである 伊東マンショ他4名等を キリシタン大名の使節としてローマ教皇のもとに派遣する計画で 日本人にヨーロッパの先進文化を体験させてイエズス会宣教師への信頼を醸成する目的で始められたものです
当時のことですから船で2年以上かけて 長崎からリスボンまで到達し (ヴァリニャーノはインドのゴアで待機 4年後に復路で再会) リヴォルノからイタリアに入り トスカーナ大公国でメディチ家に歓待され 一行は宮廷マニエリスムの絵画に出会います
そしてカプラローラでのファルネーゼ枢機卿の別荘滞在を経て いよいよローマに入り ヴァチカンの「帝王の間」で教皇グレゴリウス13世に謁見を果たしますが(1585年3月23日) あろうことかこのグレゴリウス13世が そのわずか2週間後に急逝され(1585年4月10日) コンクラーヴェを経てシクストゥス5世が新教皇となり 選出翌日に謁見するのですね
ポッセッソ(シクストゥス5世のローマ司教座着任行列)にも参列し その記録も作品に残されています
少年使節たちは滞在中にも フランスなど各国から招へいされますが ローマ教皇謁見でもって 極東布教の成果を見せることを最大の目標としていたとのこと
6月にはロレートを巡礼し ヴェネツィア共和国に入り こんどはヴェネツィア派の絵画と出会います
またムラーノ島のガラス工房も見学し サン・マルコ広場での聖十字架行列も見学しました(1585年6月29日)
7月にはヴィチェンツァに入り テアトロ・オリンピコを訪問し その時の記念の作品も残っています
そしてマントヴァ公国でゴンザーガ家の歓待を受け ドゥカーレ宮殿に滞在します
7月末から8月にかけて ミラノのブレラ宮殿に滞在し 8月8日にジェノヴァから出航し バルセロナへと向かいます
この間に一行が見てきたイタリア美術作品についても 詳しくみてゆきました
復路は1586年4月12日にリスボンからインドのゴアを経て 1590年7月21日に長崎に到着しますが その時すでにキリシタンが弾圧される時代へと変わってしまい... 秀吉に謁見するも困難な時代へと突入してゆきます...
また 極東の地日本から 二十歳にもならない少年たちが使節としてイタリアに来たことで イタリアではどのように描かれていたのかも見てゆきました ローマからはローマ市民権を授与されるなど歓待されました
かみしも等を見たこともないまま 口述されるままに絵を描いたものや 地球の反対側から来訪した日本のキリスト教使節が 4人で行ったにもかかわらず3人で描かれていたものもあり 東方三博士になぞらえてどうしても3人にしたかったという説もあります
さらにはここで ヤコポ・ティントレットに依頼され 息子ドメニコ・ティントレットが仕上げたと言われる 天正遣欧使節の肖像画 4人描いたはずが切り取られ 伊東マンショの肖像画がのちにミラノのトリヴルツィオ財団が発見したというものですが 日本にもやってきましたね...「遥かなるルネサンス」展(富士美術館)
← 発見された伊東マンショの肖像画が来日
くわしくは 「ドキュメンタリー「時の旅人-伊東マンショ 肖像画の謎-」上映会に行ってきました(2017.12.7)@イタリア文化会館」
* * *
「安土山図屏風」探索プロジェクトについて
さて その紛失した屏風についてですが...
昨年の「時の旅人ドキュメンタリー「時の旅人-伊東マンショ 肖像画の謎-」上映会に出た時にも パオラさんというミラノの女性研究者が 何年もかけて絵の来歴を調べてきたからこそ実現したことを知りましたが 今回もまた 別のパオラ・カヴァリエ―リさんが 「安土山図屏風」探索プロジェクトに参加し 2004年に「伊東マンショの肖像」素描を発見したのだと知りました グレゴリウス13世の末裔の家に何度も問い合わせをして ようやくだそうです!
安土城は 信長が建てたもののわずか数年で1582年に焼失してしまったもので それを描いた屏風は 加納永徳の作品として国宝級の価値を持っています
信長が使節を通してローマ教皇に献呈し 世界に日本を知らしめたのですね
これがある時点で所在がわからなくなったままなのですが(1592年までは 「地図の画廊」での存在が確認されています) この時期ちょうど画廊の大規模工事があったようなのです
2007年に安土町事業として 学術調査団が(このセミナーの新保講師を含む)現地入りして 入念な調査をした結果を伺い さらには研究者がその思いを受け継ぎ 2017年前後から領域横断的なメンバーにより さらに入念な史料調査が行われているというのですね
そして1585年にグレゴリウス13世が設置を指示した場所もつきとめたとのことで 現在プロジェクト継続のためのクラウド・ファウンディングが始まっています
詳しくは こちら
また 「芸術新潮」10月号でも 特集記事が組まれるとのこと
10月5日(金)~11月4日(日) 熱海のMOA美術館にて企画展「信長とクアトロ・ラガッツィ 桃山の夢と幻+杉本博司と天正少年使節が見たヨーロッパ」が開催されます
企画展は こちら
10月6日(土)には「安土城図屏風探索プロジェクト」キックオフ・シンポジウム 杉本博司と探す! 幻の安土城図屏風も開催されます
貴重な歴史の瞬間に 少しでも立ち会えたことに感謝します
文化講座リポートは こちら
文化講座の案内は こちら
次は「ローマ帝政初期の権力継承と女性 -ドムス・アウグスタ(アウグストゥスの家)の役割-」(10/20)「イタリアの歌(カント)の世界
-カンツォーネだけじゃない!? イタリア民謡の多様性-」(12/1)です
素晴らしい文化講座を開催してくださいました 星美学園短期大学様に心よりお礼申し上げます この日は体育祭をやっておりにぎやかでした(^.^)
「天正少年使節とイタリア」という文化講座に出て 研究者たちの 思いを受け継ぐ大切さを感じてきました それなくしては歴史は動かないのだと...
1582(天正10)年に長崎を出航した天正遣欧少年使節は 極東におけるカトリック宣教成功の生き証人としてヨーロッパ諸国を巡り 1585年3月にローマ教皇への謁見を果たしました
4人の少年たち(fanciulli)は 16世紀後半のイタリアでどんな体験をし 何を見てきたのでしょうか
彼らの旅程を辿りながら 当時最先端のイタリア美術について庭園から絵画 工芸まで幅広く解説します
織田信長からの贈物として教皇に献上された「安土城屛風」の行方についてもお話しします:
講座ではまず 天正遣欧少年使節(天正少年使節)について説明していただきました
イエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが 有馬のセミナリオ修了生たちである 伊東マンショ他4名等を キリシタン大名の使節としてローマ教皇のもとに派遣する計画で 日本人にヨーロッパの先進文化を体験させてイエズス会宣教師への信頼を醸成する目的で始められたものです
当時のことですから船で2年以上かけて 長崎からリスボンまで到達し (ヴァリニャーノはインドのゴアで待機 4年後に復路で再会) リヴォルノからイタリアに入り トスカーナ大公国でメディチ家に歓待され 一行は宮廷マニエリスムの絵画に出会います
そしてカプラローラでのファルネーゼ枢機卿の別荘滞在を経て いよいよローマに入り ヴァチカンの「帝王の間」で教皇グレゴリウス13世に謁見を果たしますが(1585年3月23日) あろうことかこのグレゴリウス13世が そのわずか2週間後に急逝され(1585年4月10日) コンクラーヴェを経てシクストゥス5世が新教皇となり 選出翌日に謁見するのですね
ポッセッソ(シクストゥス5世のローマ司教座着任行列)にも参列し その記録も作品に残されています
少年使節たちは滞在中にも フランスなど各国から招へいされますが ローマ教皇謁見でもって 極東布教の成果を見せることを最大の目標としていたとのこと
6月にはロレートを巡礼し ヴェネツィア共和国に入り こんどはヴェネツィア派の絵画と出会います
またムラーノ島のガラス工房も見学し サン・マルコ広場での聖十字架行列も見学しました(1585年6月29日)
7月にはヴィチェンツァに入り テアトロ・オリンピコを訪問し その時の記念の作品も残っています
そしてマントヴァ公国でゴンザーガ家の歓待を受け ドゥカーレ宮殿に滞在します
7月末から8月にかけて ミラノのブレラ宮殿に滞在し 8月8日にジェノヴァから出航し バルセロナへと向かいます
この間に一行が見てきたイタリア美術作品についても 詳しくみてゆきました
復路は1586年4月12日にリスボンからインドのゴアを経て 1590年7月21日に長崎に到着しますが その時すでにキリシタンが弾圧される時代へと変わってしまい... 秀吉に謁見するも困難な時代へと突入してゆきます...
また 極東の地日本から 二十歳にもならない少年たちが使節としてイタリアに来たことで イタリアではどのように描かれていたのかも見てゆきました ローマからはローマ市民権を授与されるなど歓待されました
かみしも等を見たこともないまま 口述されるままに絵を描いたものや 地球の反対側から来訪した日本のキリスト教使節が 4人で行ったにもかかわらず3人で描かれていたものもあり 東方三博士になぞらえてどうしても3人にしたかったという説もあります
さらにはここで ヤコポ・ティントレットに依頼され 息子ドメニコ・ティントレットが仕上げたと言われる 天正遣欧使節の肖像画 4人描いたはずが切り取られ 伊東マンショの肖像画がのちにミラノのトリヴルツィオ財団が発見したというものですが 日本にもやってきましたね...「遥かなるルネサンス」展(富士美術館)
← 発見された伊東マンショの肖像画が来日
くわしくは 「ドキュメンタリー「時の旅人-伊東マンショ 肖像画の謎-」上映会に行ってきました(2017.12.7)@イタリア文化会館」
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「安土山図屏風」探索プロジェクトについて
さて その紛失した屏風についてですが...
昨年の「時の旅人ドキュメンタリー「時の旅人-伊東マンショ 肖像画の謎-」上映会に出た時にも パオラさんというミラノの女性研究者が 何年もかけて絵の来歴を調べてきたからこそ実現したことを知りましたが 今回もまた 別のパオラ・カヴァリエ―リさんが 「安土山図屏風」探索プロジェクトに参加し 2004年に「伊東マンショの肖像」素描を発見したのだと知りました グレゴリウス13世の末裔の家に何度も問い合わせをして ようやくだそうです!
安土城は 信長が建てたもののわずか数年で1582年に焼失してしまったもので それを描いた屏風は 加納永徳の作品として国宝級の価値を持っています
信長が使節を通してローマ教皇に献呈し 世界に日本を知らしめたのですね
これがある時点で所在がわからなくなったままなのですが(1592年までは 「地図の画廊」での存在が確認されています) この時期ちょうど画廊の大規模工事があったようなのです
2007年に安土町事業として 学術調査団が(このセミナーの新保講師を含む)現地入りして 入念な調査をした結果を伺い さらには研究者がその思いを受け継ぎ 2017年前後から領域横断的なメンバーにより さらに入念な史料調査が行われているというのですね
そして1585年にグレゴリウス13世が設置を指示した場所もつきとめたとのことで 現在プロジェクト継続のためのクラウド・ファウンディングが始まっています
詳しくは こちら
また 「芸術新潮」10月号でも 特集記事が組まれるとのこと
10月5日(金)~11月4日(日) 熱海のMOA美術館にて企画展「信長とクアトロ・ラガッツィ 桃山の夢と幻+杉本博司と天正少年使節が見たヨーロッパ」が開催されます
企画展は こちら
10月6日(土)には「安土城図屏風探索プロジェクト」キックオフ・シンポジウム 杉本博司と探す! 幻の安土城図屏風も開催されます
貴重な歴史の瞬間に 少しでも立ち会えたことに感謝します
文化講座リポートは こちら
文化講座の案内は こちら
次は「ローマ帝政初期の権力継承と女性 -ドムス・アウグスタ(アウグストゥスの家)の役割-」(10/20)「イタリアの歌(カント)の世界
-カンツォーネだけじゃない!? イタリア民謡の多様性-」(12/1)です
素晴らしい文化講座を開催してくださいました 星美学園短期大学様に心よりお礼申し上げます この日は体育祭をやっておりにぎやかでした(^.^)