9月27日(土)は「四十八瀬川彼岸花」のリベンジを兼ねて彼岸花の群生が見事な埼玉県日高市の「巾着田曼珠沙華公園」に行ってきました。
折角、巾着田に行くのでハイキングも兼ねて近くにある高麗神社や聖天院等を回ってから行ってみることにしました。
大雑把なルートは次の通りです。
JR八王子駅-(八高線)-JR高麗川駅-高麗神社-聖天院-巾着田曼珠沙華公園-西武線高麗駅-(西武池袋線)-JR東飯能駅-(八高線)-JR八王子駅
<高麗川駅(こまがわえき)>

高麗川駅は30年以上も前にゴルフで待ち合わせをしたことがある駅で、駅舎は少し新しくなっていた感じがしたのですが喫茶店は昔と同じようにありませんでした。
ところで、昔の八高線は気動車(動力が熱機関)だったような気がするのですが・・・

駅に置いてあった「観光マップ」を手に入れ、駅前の「奥武蔵ハイキングマップ」で現在地から「高麗神社」へ行くルートを確認します。
少し時間があったので「野々宮神社」に寄ってから「高麗神社」に行ってみることにしました。
ところで、ハイキングマップの両側に書かれている「地下女将軍」「天下大将軍」は何の意味でしょうね?

駅前ロータリーに「日韓交流の塔」があったので撮ってみました。
塔の手前の上の方には「地下女将軍」「天下大将軍」のモチーフようなものが彫ってありました。

「高麗川駅入口」信号機を渡りバイパスを少し戻って右折すると、「野々宮神社」の前を通る「ふるさと歩道」に出ました。
「ふるさと歩道」の道端にはご覧のような彼岸花が咲いていました。「野々宮神社」はこの道の先にありそうです。
<野々宮神社(ののみやじんじゃ)>

「西武酪農乳業西武牛乳工場」を超えると左側に「野々宮神社」の鳥居がありました。
高麗川駅からは道に迷うこともなく20分位で「野々宮神社」に着きました。

手水舎には『例大祭 10月5日(日)』の「お知らせ」が掲示してありました。
又、境内にあった掲示板には、『毎年10月19日に行われる例大祭で奉納される獅子舞は近隣のものに比へて勇壮で美しく、特に蛇をのむくだりは、他に例を見ないものである』と書いてありました。


神社の扁額には「丸に菊花」の紋が彫ってあったので由緒ある神社に違いありませんね!

拝殿内に絵馬が飾ってあって、書かれた文字は右から「奉献太祓一万度 文政十三年○○九月九日」(?)と読めそうですが意味は判りません。

境内にはご覧のような土俵があったので撮ってみましたが、奉納相撲でも遣るのですかね?

「野々宮神社」の裏側は、ご覧のような杉林になっていて刀が奉納(?)してある小さな祠がありました。
<野々宮神社から高麗神社へ>

「野々宮神社」を後に、「ふるさと歩道」を通って「高麗神社」に向かいますが、途中にご覧のような案内が出ていたので一安心しました。

暫く歩くと遠くに伽藍が見えたので撮ってみましたが、ここからだと「高麗神社」なのか「聖天院」なのか判りません。

野々宮神社から15分位歩くと高麗川に架かる「出世橋」に着きました。
『巾着田曼珠沙華公園 シャトルバスバス乗降場所↑』(期間限定)の案内があったので「高麗神社」から「巾着田曼珠沙華公園」へ行くシャトルバスがあるみたいです。


「出世橋」から下に流れている高麗川を撮ってみましたが、上流では釣を楽しんでいる人達もいました。
<高麗神社(こまじんじゃ)>

「出世橋」を渡って左に行くと「高麗神社」の一ノ鳥居がありました。扁額は「高麗神社」ではなく「大宮大明神」と書いてありました。

「高麗神社」にも「地下女将軍」「天下大将軍」がありました。
これは「将軍標(チャンスン)」と云って、韓国では村の入り口や道端に魔除けや道しるべとして置かれているみたいですよ!

二ノ鳥居をくぐって更に参道を進みますが、二ノ鳥居の扁額は「高麗神社」と書いてありました。

二ノ鳥居の脇の手水舎で身を清めてから先に進むと、参道の両脇に著名な政治家が参拝した時の献木がありました。
「高麗神社」は、参拝した後に総理大臣に就任した政治家(若槻禮次郎、浜口雄幸、鳩山一郎等)が多かったので「「出世明神」と呼ばれているみたいですよ!

更に参道を進むと御神門(ごしんもん)に行く階段の手前に祓所(はらえど)があったので撮ってみました。


御神門の扁額は「高句麗神社」となっていましたが、何故か”句”は小さい字で書かれていました。

御神門の先にはご覧のような御本殿(ごほんでん)がありました。尚、御本殿は埼玉県の文化財に指定されています。

御本殿にお参りした後、失礼して内部も撮らせて頂きました。

境内では「高句麗文化展」を遣っていて参集殿(さんしゅうでん)に華麗な装束が展示してありました。

27日は高麗郡建郡1300年記念事業の一環として麦感謝祭「まんじゅう祈願まつり」を遣っていて、神楽殿の前で巫女さんが踊っていたので撮ってみました。
ところでパンフレットには、『約1300年前に駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7カ国にすでに移住していた高句麗からの渡来人(高麗人)を武蔵野国に集め高麗郡が建郡されました。』と書いてありました。
「まんじゅう祈願まつり」で境内も賑わっていたので野外の休憩所でビールを飲みながら早めの昼食を取ることにしました。
⇒ ビールを買いに売店に行ったらアルコール類は置いてないと云われました(アチャ!)。仕方なく同じ麦で作った「巾着田まんじゅう」(270円/個)を買ってしまいました。

昼食を取った後、「高麗神社」の裏にある慶長年間(1596~1615)に建てられた高麗氏の旧住宅(高麗家住宅)を見に行ってみました。
高麗家住宅(こまけじゅうたく)の脇には樹齢400年(推定)の枝垂れ桜もありました。

高麗家住宅は、ご覧のような茅葺きの入母屋造りの平入りで土間と五つの部屋で構成され、国の重要文化財にも指定されています。
パンフレットには、『この住宅を住まいとした高麗氏は、高麗神社の御祭神高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)の子孫です。現当主は、若光から数えて60代目にあたり、高麗神社宮司を勤めています。』と書いてありました。
高麗家住宅の内部の写真も撮ったのですが残念ながら上手く撮れていませんでした(すいません)。
「高麗神社」を後に「聖天院」に行くことにしました。
<高麗神社から聖天院へ>

「高麗神社」からカワセミ街道に出てから「聖天院」に行くつもりでしたが、「車祓所(くるまはらえじょ)」の先にご覧のような案内が出ていたので近道で行ってみることにしました。


道端にご覧のようなコスモス畑があったのでアップで撮ってみました。

近道を5分位歩くと駐車場の彼岸花越に「聖天院」が見えてきたのでアップで撮ってみました。
「高麗神社」に行く途中で見えた伽藍は「聖天院」の本堂でしたね!
「巾着田ハイキング(聖天院編)」に続く。
折角、巾着田に行くのでハイキングも兼ねて近くにある高麗神社や聖天院等を回ってから行ってみることにしました。
大雑把なルートは次の通りです。
JR八王子駅-(八高線)-JR高麗川駅-高麗神社-聖天院-巾着田曼珠沙華公園-西武線高麗駅-(西武池袋線)-JR東飯能駅-(八高線)-JR八王子駅
<高麗川駅(こまがわえき)>

高麗川駅は30年以上も前にゴルフで待ち合わせをしたことがある駅で、駅舎は少し新しくなっていた感じがしたのですが喫茶店は昔と同じようにありませんでした。
ところで、昔の八高線は気動車(動力が熱機関)だったような気がするのですが・・・

駅に置いてあった「観光マップ」を手に入れ、駅前の「奥武蔵ハイキングマップ」で現在地から「高麗神社」へ行くルートを確認します。
少し時間があったので「野々宮神社」に寄ってから「高麗神社」に行ってみることにしました。
ところで、ハイキングマップの両側に書かれている「地下女将軍」「天下大将軍」は何の意味でしょうね?

駅前ロータリーに「日韓交流の塔」があったので撮ってみました。
塔の手前の上の方には「地下女将軍」「天下大将軍」のモチーフようなものが彫ってありました。

「高麗川駅入口」信号機を渡りバイパスを少し戻って右折すると、「野々宮神社」の前を通る「ふるさと歩道」に出ました。
「ふるさと歩道」の道端にはご覧のような彼岸花が咲いていました。「野々宮神社」はこの道の先にありそうです。
<野々宮神社(ののみやじんじゃ)>

「西武酪農乳業西武牛乳工場」を超えると左側に「野々宮神社」の鳥居がありました。
高麗川駅からは道に迷うこともなく20分位で「野々宮神社」に着きました。

手水舎には『例大祭 10月5日(日)』の「お知らせ」が掲示してありました。
又、境内にあった掲示板には、『毎年10月19日に行われる例大祭で奉納される獅子舞は近隣のものに比へて勇壮で美しく、特に蛇をのむくだりは、他に例を見ないものである』と書いてありました。


神社の扁額には「丸に菊花」の紋が彫ってあったので由緒ある神社に違いありませんね!

拝殿内に絵馬が飾ってあって、書かれた文字は右から「奉献太祓一万度 文政十三年○○九月九日」(?)と読めそうですが意味は判りません。

境内にはご覧のような土俵があったので撮ってみましたが、奉納相撲でも遣るのですかね?

「野々宮神社」の裏側は、ご覧のような杉林になっていて刀が奉納(?)してある小さな祠がありました。
<野々宮神社から高麗神社へ>

「野々宮神社」を後に、「ふるさと歩道」を通って「高麗神社」に向かいますが、途中にご覧のような案内が出ていたので一安心しました。

暫く歩くと遠くに伽藍が見えたので撮ってみましたが、ここからだと「高麗神社」なのか「聖天院」なのか判りません。

野々宮神社から15分位歩くと高麗川に架かる「出世橋」に着きました。
『巾着田曼珠沙華公園 シャトルバスバス乗降場所↑』(期間限定)の案内があったので「高麗神社」から「巾着田曼珠沙華公園」へ行くシャトルバスがあるみたいです。


「出世橋」から下に流れている高麗川を撮ってみましたが、上流では釣を楽しんでいる人達もいました。
<高麗神社(こまじんじゃ)>

「出世橋」を渡って左に行くと「高麗神社」の一ノ鳥居がありました。扁額は「高麗神社」ではなく「大宮大明神」と書いてありました。

「高麗神社」にも「地下女将軍」「天下大将軍」がありました。
これは「将軍標(チャンスン)」と云って、韓国では村の入り口や道端に魔除けや道しるべとして置かれているみたいですよ!

二ノ鳥居をくぐって更に参道を進みますが、二ノ鳥居の扁額は「高麗神社」と書いてありました。

二ノ鳥居の脇の手水舎で身を清めてから先に進むと、参道の両脇に著名な政治家が参拝した時の献木がありました。
「高麗神社」は、参拝した後に総理大臣に就任した政治家(若槻禮次郎、浜口雄幸、鳩山一郎等)が多かったので「「出世明神」と呼ばれているみたいですよ!

更に参道を進むと御神門(ごしんもん)に行く階段の手前に祓所(はらえど)があったので撮ってみました。


御神門の扁額は「高句麗神社」となっていましたが、何故か”句”は小さい字で書かれていました。

御神門の先にはご覧のような御本殿(ごほんでん)がありました。尚、御本殿は埼玉県の文化財に指定されています。

御本殿にお参りした後、失礼して内部も撮らせて頂きました。

境内では「高句麗文化展」を遣っていて参集殿(さんしゅうでん)に華麗な装束が展示してありました。

27日は高麗郡建郡1300年記念事業の一環として麦感謝祭「まんじゅう祈願まつり」を遣っていて、神楽殿の前で巫女さんが踊っていたので撮ってみました。
ところでパンフレットには、『約1300年前に駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7カ国にすでに移住していた高句麗からの渡来人(高麗人)を武蔵野国に集め高麗郡が建郡されました。』と書いてありました。
「まんじゅう祈願まつり」で境内も賑わっていたので野外の休憩所でビールを飲みながら早めの昼食を取ることにしました。
⇒ ビールを買いに売店に行ったらアルコール類は置いてないと云われました(アチャ!)。仕方なく同じ麦で作った「巾着田まんじゅう」(270円/個)を買ってしまいました。

昼食を取った後、「高麗神社」の裏にある慶長年間(1596~1615)に建てられた高麗氏の旧住宅(高麗家住宅)を見に行ってみました。
高麗家住宅(こまけじゅうたく)の脇には樹齢400年(推定)の枝垂れ桜もありました。

高麗家住宅は、ご覧のような茅葺きの入母屋造りの平入りで土間と五つの部屋で構成され、国の重要文化財にも指定されています。
パンフレットには、『この住宅を住まいとした高麗氏は、高麗神社の御祭神高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)の子孫です。現当主は、若光から数えて60代目にあたり、高麗神社宮司を勤めています。』と書いてありました。
高麗家住宅の内部の写真も撮ったのですが残念ながら上手く撮れていませんでした(すいません)。
「高麗神社」を後に「聖天院」に行くことにしました。
<高麗神社から聖天院へ>

「高麗神社」からカワセミ街道に出てから「聖天院」に行くつもりでしたが、「車祓所(くるまはらえじょ)」の先にご覧のような案内が出ていたので近道で行ってみることにしました。


道端にご覧のようなコスモス畑があったのでアップで撮ってみました。

近道を5分位歩くと駐車場の彼岸花越に「聖天院」が見えてきたのでアップで撮ってみました。
「高麗神社」に行く途中で見えた伽藍は「聖天院」の本堂でしたね!
「巾着田ハイキング(聖天院編)」に続く。