ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『朝長』について(その34=懺法について その4)

2006-06-20 01:38:10 | 能楽
さてこの中入の間狂言の「語リ」、またおワキの「大崩ノ語」の間は、本来であれば囃子方は床几から下りて横向きに正座していますが、「懺法」に限ってお囃子方は横向きにクツログことをせず、床几に腰掛けたままでいるそうです(ぬえは不注意にしてそこに気がつきませんで、残念ながら舞台上でそれを注視した記憶がないのですが、ぬえが所持する「懺法」の囃子の手付けにもその旨が記載されてありました)。間狂言が「居語リ」をする曲でお囃子方がクツロがないのはほかに例がないそうです。またおワキの「大崩ノ語」が終わると待謡となりますが、おワキの「語リ」を聞いていた間狂言は「語リ」が済むと膝行したまま笛座前に下がります。これも他の曲に例はないか、少ないでしょう。これは先日の「懺法」のお舞台でも ぬえも拝見しました。

一方、中入の間に(太鼓の流儀により中入前の地謡「三世十方」のところで)太鼓方の後見は「懺法太鼓」を袱紗に包んで舞台に持ち出し、太鼓の本役の脇にある「見せ皮」と取り替えます。「太鼓の間」の中で後見によって最終的な調整を受け、袱紗に包まれて封をされた懺法太鼓。太鼓の本役は舞台の上でこれを受け取ってみずから封を切ります。流儀によってはここで本役は太鼓の調べ緒を「音がするように」締めて本当に最後の調子の仕上げをするのだそうです。いよいよ「懺法の出端」が打ち出される準備が整うわけで、次第に舞台上にも見所にも緊張感が高まってきます。

そして待謡は、まずおワキが脇座の前へ出て正面に向いて経巻を開き、観音懺法を読み、そのまま待謡となります。ワキツレはワキの左右に少し下がって控え、合掌。待謡は常よりもシッカリとした位になり、待謡の最後はワキツレは謡わずワキの独吟となります。

この待謡は常はツヨ吟であるのを「懺法」に限ってヨワ吟に替える、とも記述を発見したのですが、それに続いての記事が少々混乱していまして。。下掛リ宝生流の場合の記事ですが「宝生流では常にヨワ吟」という記述と、「懺法に限ってヨワ吟に替える」という二通りの記述を発見しました。ぬえ上演の『朝長』(小書ナシ)ではおワキのお流儀は下掛リ宝生流でしたが、そのときの待謡はヨワ吟でしたので、おそらく後者の記述が間違っているか、演出に変化が生じたのかもしれません。ほかにも待謡について口伝とおぼしき記述も発見しましたが、今回は割愛させて頂きます。

【注】この稿の ぬえの書き込みは、すべて書籍・雑誌等で公開された情報に基づいていて、公開された情報の正否については必ずしも確認を取っていません。間違った情報をそのまま書き込んでいる可能性もある事をご承知置きください。

そしていよいよ「懺法の出端」となります。

待謡の間に太鼓方はシテ柱の方へウケて向き(流儀の違いがあるかも)、待謡が済むと、まず笛が低い調子でアシライを吹き、それに続けて太鼓が「デーン」と頭を打ちます。この小書の場合、この太鼓の最初の粒ひとつを聞くために前シテのあいだから見所の緊張感は高まっていて、この調子ひとつを聞いて、みなさん「!」と感慨を持ちます。ここまでの緊張感は『道成寺』に匹敵するのではないでしょうか。ぬえ、以前に「懺法」を披いた太鼓方とその当夜に飲んだ事があるのですが、本人は自分の出来に納得できなかったようで気落ちしていたけれど、ぬえにとっては本当に『道成寺』の披キを見ているようだった、と讃えて差し上げた。このとき『道成寺』の披キ、という言葉が自然に出てきたけれど、見所で拝見していた ぬえにとってはまさにそういう、手に汗握る「間」でしたね。シテ方と囃子方と、職種はちょっと違っても、舞台生命を賭けた舞台というものは伝わるし、そういう機会を ぬえはできる限り見逃さずに立ち会うように努めています。

さて太鼓が最初のひと粒を打ち出して、それから訪れる静寂。。流儀にもよりますが、次の音をお客さまが聞くまでに30秒掛かり、その間の緊張感を「気」だけで持続させる。。これをはたして「登場音楽」と呼べるかしら。。「打たない」事を極限まで追求した、と言葉で言うのは容易いけれど、それをアンサンブルである囃子方や、その長大な間の中で登場しなければならないシテと、完全に合意したうえで追求するのは簡単なことではないでしょう。しかも舞台芸術である以上、それを「待つ」観客を無視して自己満足的に舞台を追求する事は絶対に不可能であるはず。下世話な事を言えば、その「観客」というのは当時、演者の生命さえも左右する権力者であったはずなのに。。「緊張感」によって観客が得るカタルシスを目的にしているにせよ、ここまでのものを許容するなんて。。ぬえはこういうものに接するとき、「日本」という土壌が培った文化に、何というか、恐ろしさ、まで感じます。。

【おことわり】
この稿のポリシーについては→ 『朝長』について(その31=懺法について その1)をご参照ください。