ぬえの能楽通信blog

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扇の話(その5)

2008-02-02 02:29:54 | 能楽
で、その近衛引と呼ばれている文様の名称が、近衛家に由来しているのかどうか。。は ぬえは知らないのですが、今日はそれと仮定して近衛家についてお話してみましょう。じつは能にもいろいろな意味で深く関係があるのです。

近衛家は藤原北家が分かれて五家となった、いわゆる「五摂家」の筆頭の家柄という立場にあります。

藤原氏についてはこのブログでも何度か触れていますが、始祖の中臣鎌足が臨終の間際に天智天皇から大織冠の官位(正一位に相当)と藤原姓を賜ったのがはじまりで、鎌足はいまの興福寺の前身となる伽藍を建立。興福寺は平城京遷都と同時に常陸の鹿島神宮を勧請して造営された春日大社とともに、藤原家の氏寺・氏社として隆盛を極め、鎌足自身ものちに大和・多武峰の談山神社に神として祀られました。

鎌足の子が淡海公と呼ばれた辣腕政治家の藤原不比等で、その子の世代から「藤原四家」が分立しましたが、結局 次男・房前を祖とする北家だけが命脈を保つこととなりました。しかし、北家は生き残った一家という零落した印象とはあまりにほど遠く、長く栄華を誇る名家となりました。

ここまで簡単に見てきただけでも観阿弥・世阿弥父子が統括する結崎座ほか現在の能楽の各流儀の前身である大和四座が出勤の義務を負っていた三つの催し(興福寺の薪御能、春日大社の若宮御祭、多武峰の八講猿楽)の上演場所が出てくるし、「大織冠」は鎌足をさす言葉として能『海士』の間狂言が語り、不比等をさす「淡海公」は『海士』の謡曲本文に見え、さらに房前は それこそ子方として『海士』に登場しますね。これほど能と藤原は縁が深く、その庇護の下で芸に磨きをかけていった、とも言えるのです。能『海士』や『采女』などの本文を読むと、能の作者が藤原に気を遣いながら作詞をした様子が手に取るようにわかります。

ところがまあ、北家以後の藤原家の栄華たるや、ほかの公家のどんな家ともくらべものにならないほどで。道長も、俊成も、定家も、その流れである現在の冷泉家も、紫式部も、『蜻蛉日記』の作者 道綱母も、み~んな藤原家の一族です。まあ、藤原家は公卿だから、誰もが名前を知っているような有名人はあまりいないのですが、それでもこれだけの人物を数え上げられるし、義経をかくまい、中尊寺の金色堂で有名な奥州藤原も遠い傍流。さらに武家も輩出していて、その中には本当に藤原の傍系なのか怪しいものも含まれますが伊達、上杉、足利、二階堂、といった東国の武家のほか、能に登場する人物が属する家柄としても佐野(『鉢木』)、富樫(『安宅』)、狩野(『千手』)、伊東・工藤(『小袖曽我』)などなど枚挙にいとまがありません(足利氏は藤原の傍流で下野を領土としていましたが、観阿弥・世阿弥が庇護を受けた室町幕府の足利氏は源氏で別系統)。

さて藤原氏は平安時代には五家に分かれて、それぞれ近衛・鷹司・二条・九条・一条と称しました。この頃から氏である藤原を名乗るのは公文書に署名するときなどの公的な場に限られて、ふだんは それぞれの家の苗字を名乗るようになり、それは後世さらに分派しました。ですから、この頃以降に「藤原」を名乗る人。。現在でもその苗字の方は大勢おられるわけですが、それらは残念ながら藤原氏の系統を汲む方ではないと考えられるのです。

ここも面白い事に、藤原の筆頭の家柄(氏の長者=本家の当主)としての近衛さんは公文書などには「藤原なにがし」と署名する、と記しましたが、それって世阿弥も同じ事をやっているのです。