ぬえの能楽通信blog

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扇の話(その8)

2008-02-06 03:52:47 | 能楽
さて近衛家に話を戻す。。のですが、まずは近衛家が属する藤原氏についての解説を完結させておかねば。。

藤原氏では藤原房前を祖とする藤原北家だけが繁栄したのですが、房前より5代目の子孫である藤原基経に至って日本史上はじめての関白の位に上り、以後基経の子孫が関白あるいは摂政の位を独占するようになりました。藤原氏の栄華を象徴する歌「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」を詠んだ藤原道長は基経よりもさらに4代あとの人。時代としてはちょうど今から千年前の平安時代中期頃にあたります。能『東北』の後シテ(和泉式部)が「御堂関白」と言っているのは道長のことで、彼が法成寺を建立したことに由来して、当時そのようにも呼ばれていました。

同じく『東北』に出てくる「上東門院」は道長の娘で一条帝の中宮(皇后)の彰子(しょうし=あきこ)のことで、彼女は法成寺の東北に位置する場所に東北院を建てた、とも言われていますから、あるいは紫式部や和泉式部が集った彰子の文芸サロンの一部がそこに置かれていて(当時彰子は宮廷内で道長の兄・道隆の娘の定子<ていし>とライバル関係にありました。定子もまた文芸サロンを持っていて、このライバル関係の競争心のゆえか、彰子に仕える紫式部が『源氏物語』を著し、同じく和泉式部が歌人としての才能を開花させた一方、定子に仕えた女房の清少納言が『枕草子』を記すなど、文芸が大いに発展した時代でもありました)、娘に会いに来た父・道長が牛車の中で法華経を読誦したときの様子が能に描かれているのかもしれませんね。もっとも『東北』に描かれるこの小さな挿話も、和泉式部作とされる和歌も、どの古典文学作品に取材したものなのか。。今に至るまで ぬえには見つけられません。これは能の作者の創作かもしれません。。なおついでながら道長の日記『御堂関白記』は子孫である近衛家の「陽明文庫」に伝存していて国宝となっています。

能『土蜘蛛』のツレである源頼光もまたこの時代の人で、道長の側近だったと言われています。頼光は能『仲光』にツレの役として登場する多田(源)満仲の長男で、歴とした清和源氏の三代目。能の中では『大江山』などにも登場する頼光が脚光を浴びていますが、じつはその父 多田満仲もまた、後の世の日本史を動かした様々な人物の源流として日本史の中で特筆すべき人です。満仲の三人の子のそれぞれの子孫は、本拠地の名を冠して摂津源氏・大和源氏・河内源氏へと枝分かれして行き、摂津からは『頼政』のシテの源頼政や後世には明智光秀なども出ましたが、なんと言っても河内源氏は八幡太郎義家や源義朝、頼朝、朝長、義経、木曽義仲が出、頼朝により鎌倉幕府が、それに続いてさらに河内源氏の足利氏が室町幕府を興したことで武家の棟梁と目されることになりました。木曽義仲や頼朝の時代から、それまで忘れ去られていた過去の官職である「征夷大将軍」への任命を朝廷から受けるのが武家の棟梁のあかしとして慣例化しました。例外はありますが征夷大将軍の官職は清和源氏、わけても河内源氏から出るのが常識とされるようにもなり、その始祖が多田満仲なのです。後世では、出自がハッキリしない徳川家康が、自分は河内源氏の新田氏の子孫であると主張してこれを朝廷に認めさせて征夷大将軍の宣旨を受けたりしています。そして家康以後の江戸幕府の総督は世襲で征夷大将軍の地位を保証されました。歴代の徳川の当主を「将軍」と呼ぶのは、これをさしているワケなのですね。

鎌倉時代以降、日本の政治を司ったのは実質的に武家なのですが、それでも武家は「朝廷の臣下」という建前上の立場は堅持しなければなりませんでした。そのように実権はなくなっていたものの、京都では依然として天皇が国の元首であり、摂政・関白はそれを補佐するナンバーツーの役職でした。そして摂政・関白の地位は藤原基経の関白就任以後、藤原氏の末裔の最高位の者と規定されました。征夷大将軍と同じように、摂政・関白という公家のトップの地位は藤原氏が独占して「摂関家」と呼ばれました。そしてそれは。。なんと明治になるまで千年も続いたのです。