ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

扇の話(その7)

2008-02-05 01:18:25 | 能楽
さて世阿弥が自分の祖先とした秦河勝ですが、聖徳太子に仕え現在の広隆寺を創建した人です。聖徳太子の臣下ならば、以下のような『風姿花伝』の中の世阿弥の言葉の意図も納得できるのではないでしょうか。

「推古天皇の御宇に、聖徳太子、秦河勝におほせて、かつは天下安全のため、かつは諸人快楽のため、六十六番の遊宴をなして、申楽と号せしよりこのかた、代々の人、風月の景を仮って、この遊びのなかだちとせり。そののち、かの河勝の遠孫、この芸を相続ぎて、春日・日吉の神職たり。よつて、和州・江州のともがら、両社の神事に従うこと、今に盛んなり」

「欽明天皇御宇に、大和国泊瀬の河に、洪水のをりふし、河上より、一の壺流れくだる。三輪の杉の鳥居のほとりにて、雲客この壺をとる。なかにみどりごあり。貌柔和にして玉のごとし。これ降り人なるがゆゑに、内裏に奏聞す。その夜、御門の御夢に、みどりごのいふ、われはこれ、大国秦始皇の再誕なり。日域に機縁ありて、いま現在すといふ。御門奇特におぼしめし、殿上にめさる。成人にしたがひて、才知人に超えば、年十五にて、大臣の位にのぼり、秦の姓をくださるる。「秦」といふ文字、「はた」なるがゆゑに、秦河勝これなり。上宮太子、天下すこし障りありし時、神代・仏在所の吉例にまかせて、六十六番のものまねを、かの河勝におほせて、同じく六十六番の面を御作にて、すなはち河勝に与へたまふ。橘の内裏の柴宸殿にてこれを勤す。天治まり国しづかなり。上宮太子・末代のため、神楽なりしを神といふ文字の偏を除けて、旁を残したまふ。これ非暦の申なるがゆゑに、申楽と名附く。すなはち、楽しみを申すによりてなり。または、神楽を分くればなり」

聖人のように考えられていた聖徳太子と、それに付き従う秦河勝。どちらにも神通力のような神に通じる不思議な力が宿り、いま我々が演じる能は神楽(かぐら、ではなくて「かみがく」という感じなのでしょう)として天下泰平を実現する祈祷でもあるのだ、と。現実性の有無は別として、跡を継いで芸道に進む子孫や後進に対して、これほど勇気づけられる言葉もなかったでしょう。「秦」姓を名乗ることは、世阿弥にとって能楽の伝承や発展のためにもっとも有用な、もう一つの発明だったのだと思います。

ここで面白いのは、この世阿弥の主張が、現代でも別な場所で脈々と息づいていること。たとえば現代の観世流のご宗家は26世を名乗っておられますが、これは観阿弥を初世として数えておられます。一方能楽のご宗家の中で、最も長い世代を数えておられるのが金春流で、こちらは現ご宗家で80世を数えておられます。そして。。その初世こそが。。秦河勝なのです。

将来を嘱望した長男・元雅を亡くし、また観世座の実権も弟・四郎に移ってゆき、さらには自身も佐渡へ配流されるなど晩年は不遇だった世阿弥が自分の愛弟子として信頼を深めたのが娘婿の金春禅竹で、世阿弥は元雅の生前から『六義』『拾玉得花』などの自著の伝書や能の台本を禅竹に相伝し、晩年配流後の佐渡からも書状での通信がありました。禅竹は世阿弥のことを「師家」と記し、世阿弥もまた禅竹のことを「芸風の性位も正しく、道をも守るべき人」と評しています。

さらに上記 禅竹に相伝された伝書にしても『六義』は昭和16年に宝山寺で「金春家旧蔵」伝書として発見され、内容も世阿弥自筆の奥書と花押があるものの、本文は別人の筆で、これは相伝を受けた禅竹に本文を書写させ、世阿弥が相伝のしるしとして奥書を書き添えたと考えられています。『拾玉得花』もまた、写本ながら世阿弥伝書の中では最も新しく発見された(昭和31年)もので、しかもその発見の場所がまた、ほかならぬ金春流のご宗家なのです。これほど世阿弥と金春禅竹は深い師弟愛で結ばれていました。世阿弥が秦河勝を祖と仰ぎ、尊敬する世阿弥と血縁関係を持った禅竹が、世阿弥の思いを一身に受けてひとつに結ばれようと思ったその敬愛の情が、現在にまで脈々と金春流のご宗家の世代の数え方に受け継がれているのです。美しい。。