能面というものは、自分の目に能面の眼の穴を合わせて掛けるように思われていますが、実際にはそうでなかったりします。総じて自分の顔より面を少し上にズラして掛けた方が、シテの姿が美しく見えるものなのです。そうやって面を掛けると、自分の目よりも面の眼の穴が少し高くなる、要するにズレてしまうのではないか? とお考えになる方が多いと思いますが。。実際その通りだったりします。(^◇^;) ですから姿の見栄えを取るか、視界を確保するのを取るか、という選択になるわけで、そうなるとそこはやっぱり役者ですから見栄えを取ることになる。人にもよるでしょうが、ぬえの場合は天井を見ながら舞っていたりします。(・_・、)
これがまた、演者によっては自分の目を面の眼に合わせても姿がまとまる方がありますね。身体のバランスの問題でしょうが、これは羨ましいかぎり。それから、このように目をズラして掛けるのは女面やそれに類する面に限ったことでして、たとえば『殺生石』では前シテはこのように(ぬえの場合は)目をズラして掛けますが、後シテでそれをやったら大変。激しい動きをする役の場合、目をズラして掛けたら舞台から落ちてしまいます(ぬえも一度試しに面をズラして激しい動作のある役を勤めてみて、この世の終わりかと思うほど恐怖を感じた経験あり。。)。それに、そういう役の場合は面を掛ける位置の微妙な違いによる姿の見栄えのよしあしなんて、舞台効果の面では違いはほとんど問題にならなかったりしますし。
というわけで ぬえは「呼掛け」の場面ではワキの方を向いてもその姿は見えませんで。。とはいえ適当に見計らって声を出してワキを呼び止めてしまっては前記の通り おワキにはご迷惑を掛けてしまいます。そこで、ぬえはこの「呼掛け」の場合ばかりは仕方なく面を下げて(下を向いて)、ワキの姿を視界に入れて呼び掛けることにしています。これ、幕の内だからできることで、お客さまのお席によって幕内まで見通せる場合は あまり良い姿ではないかもしれませんですね。。
さてシテに呼び止められたワキと狂言の二人の一行は、振り返ってシテの姿を認めて応答します。
狂言「や。何事やら申し候。
ワキ「そも此の右のほとりへよるまじき謂れの候か。
狂言はこのひと言を謡うとすぐに狂言座(橋掛り一之松の裏欄干)に行き、肩にかついでいた払子を置いて正面に向いて着座します。
この狂言座というのも、考えてみれば能の中では極めて特異な場所ですね。ぬえは考えるのですが、ここに座る役者は「台本上この場面にもたしかに存在するのだが、演出上、あるいは舞台効果の都合上、一時的に舞台上から消し去られた役」という意味の約束だと思うのです。
『殺生石』の場合、やはり事件の中心となるのはシテとワキであって、間狂言はこの能の中では要所要所に随時登場して、スムーズな舞台進行を助けたり、お客さまの曲の内容の理解を助けたりします。たとえば曲の冒頭にワキと一緒に登場した狂言は払子を肩にかついでいます。後にワキがこの払子を打ち振って殺生石を一喝するのですが、ところがワキ自身が払子を手に持って登場したのでは、前シテとの問答の場面に甚だ邪魔になるでしょう。また、殺生石が飛ぶ鳥を落とすのを発見する場面でも、ワキが文語調で「あら不思議や。あれに見えたる石の上を飛ぶ鳥が。。」などと言うよりも、狂言方が口語調で「ありゃありゃ!」と言う方がはるかに緊迫感が増すでしょう。この場面に狂言方は必要不可欠な存在なのです。
ところが、いざ前シテが登場すると、怪物の化身たるシテと、法力を持ったワキとの対話がこの曲の内容を掘り下げてゆくことになります。この場面では、実際にはワキに同行してはいているはずであっても、狂言方は一時的に姿を控えた方が、お客さまの視点も定まりやすいでしょう。それで狂言方は狂言座に着座して微動だにせず控えているのだと思います。
さて前シテが中入すると狂言方は立ち上がってワキの前へ進み、今の女は誰であろうか、とワキと対話します。間違いなく間狂言は前シテが言った言葉を聞き、彼女が消え去るところまでをワキと一緒に目撃しているのです。
これがまた、演者によっては自分の目を面の眼に合わせても姿がまとまる方がありますね。身体のバランスの問題でしょうが、これは羨ましいかぎり。それから、このように目をズラして掛けるのは女面やそれに類する面に限ったことでして、たとえば『殺生石』では前シテはこのように(ぬえの場合は)目をズラして掛けますが、後シテでそれをやったら大変。激しい動きをする役の場合、目をズラして掛けたら舞台から落ちてしまいます(ぬえも一度試しに面をズラして激しい動作のある役を勤めてみて、この世の終わりかと思うほど恐怖を感じた経験あり。。)。それに、そういう役の場合は面を掛ける位置の微妙な違いによる姿の見栄えのよしあしなんて、舞台効果の面では違いはほとんど問題にならなかったりしますし。
というわけで ぬえは「呼掛け」の場面ではワキの方を向いてもその姿は見えませんで。。とはいえ適当に見計らって声を出してワキを呼び止めてしまっては前記の通り おワキにはご迷惑を掛けてしまいます。そこで、ぬえはこの「呼掛け」の場合ばかりは仕方なく面を下げて(下を向いて)、ワキの姿を視界に入れて呼び掛けることにしています。これ、幕の内だからできることで、お客さまのお席によって幕内まで見通せる場合は あまり良い姿ではないかもしれませんですね。。
さてシテに呼び止められたワキと狂言の二人の一行は、振り返ってシテの姿を認めて応答します。
狂言「や。何事やら申し候。
ワキ「そも此の右のほとりへよるまじき謂れの候か。
狂言はこのひと言を謡うとすぐに狂言座(橋掛り一之松の裏欄干)に行き、肩にかついでいた払子を置いて正面に向いて着座します。
この狂言座というのも、考えてみれば能の中では極めて特異な場所ですね。ぬえは考えるのですが、ここに座る役者は「台本上この場面にもたしかに存在するのだが、演出上、あるいは舞台効果の都合上、一時的に舞台上から消し去られた役」という意味の約束だと思うのです。
『殺生石』の場合、やはり事件の中心となるのはシテとワキであって、間狂言はこの能の中では要所要所に随時登場して、スムーズな舞台進行を助けたり、お客さまの曲の内容の理解を助けたりします。たとえば曲の冒頭にワキと一緒に登場した狂言は払子を肩にかついでいます。後にワキがこの払子を打ち振って殺生石を一喝するのですが、ところがワキ自身が払子を手に持って登場したのでは、前シテとの問答の場面に甚だ邪魔になるでしょう。また、殺生石が飛ぶ鳥を落とすのを発見する場面でも、ワキが文語調で「あら不思議や。あれに見えたる石の上を飛ぶ鳥が。。」などと言うよりも、狂言方が口語調で「ありゃありゃ!」と言う方がはるかに緊迫感が増すでしょう。この場面に狂言方は必要不可欠な存在なのです。
ところが、いざ前シテが登場すると、怪物の化身たるシテと、法力を持ったワキとの対話がこの曲の内容を掘り下げてゆくことになります。この場面では、実際にはワキに同行してはいているはずであっても、狂言方は一時的に姿を控えた方が、お客さまの視点も定まりやすいでしょう。それで狂言方は狂言座に着座して微動だにせず控えているのだと思います。
さて前シテが中入すると狂言方は立ち上がってワキの前へ進み、今の女は誰であろうか、とワキと対話します。間違いなく間狂言は前シテが言った言葉を聞き、彼女が消え去るところまでをワキと一緒に目撃しているのです。