ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

第9次支援活動<雄勝町・気仙沼>(その7…渡波)

2012-09-07 20:10:15 | 能楽の心と癒しプロジェクト
今回の石巻での宿泊は渡波(わたのは)という地域にあります。渡波は石巻市街からは東にあたり、牡鹿半島の付け根にあります。石巻湾の東端から巨大な万石浦(まんごくうら)という湖。。ではなくて陸地に深く入り込んだ内海が石巻湾とつながる細い水路の周辺までに広がる町です。石巻から、やはり牡鹿半島の付け根の女川に行くにはこの渡波を通って万石浦に沿って西に向かうことになります。

ぬえは去年の秋頃から渡波を見ていましたが、あまりにひどい被害に言葉がありませんでした。そうして、年末頃に見たときも、ほとんど瓦礫の片づけは進んでいないようでした。雄勝や河北町でも思ったことですが、市の中心部から離れるに従って復興の遅れは目につきます。

渡波。。ぬえとこの町との関係ができたのはこの日が初めでしたが、思いはずっと持っていました。年末に開成仮設住宅で出会って、ぬえの前で「津波ごっこ」をかいま見せた小学生の女の子たち。彼女たちは渡波の住民でした。東京の ぬえの友人の「WAHAHA本舗」の芸人さんと話したときも、彼は渡波にボランティア活動に行ったそうでした。

この日、ラジ石への出演と、観光協会さまでの出演を終えて、住民ボランティアさんのご自宅。。こちらも被災住宅に戻って、シャワーをあびて。さてワキのNくんと笛のTさんはすでに ぐったりと睡眠モードだったようですが、ぬえはそのままご近所で営業している居酒屋さんへ。

。。と言っても、付近は損壊した家とかあちこち空き地が目立ち、淋しい町になってしまっています。居酒屋さんの ちょうちんの明かりがまぶしい。お店ではカウンターに何人かの常連さん。。若い人が多かったですが、いらっしゃったので ちょっと遠慮してこちらのテーブルで一人でビールを飲んでいました。。が、ほどなく「こちらにどうぞ~」と常連さんに声を掛けられてカウンター席に移らせて頂きました。

ここで聞いた震災当時の渡波の有様。。ぬえが泊まったこのあたりは牧山が背後に迫った渡波でも比較的平地があるところなのですが、津波は山まで迫ったのだそうです。居酒屋さんのご主人は、大地震で隣家の庭に飛び込んだ自分のトラックに飛び乗り、急いで山の方まで逃げて助かったそう。常連さんのお話もそれはそれは凄まじいものでした。。「津波を生き延びた飼い犬が それ以来海を怖がるんだよ」「うちの犬は屋根の上に上って うんちをするんだよ」。。これは無防備になる瞬間には不安で地上にいる事ができないらしいのですって。。

震災当時の話はもっと凄まじく、まず食料がなかった。。「自衛隊がやっとやって来て支援を受けるまでの数日間、言葉は悪いけれど、ここの人たちは みんな『略奪』をやったよ。そうしないと生きていけなかった」。。もちろん強盗のようなものではなく、被災した食料品店から食料を調達しなければ食べるものさえなかったのだそうです。このへんにも市の中心部から外れた地域ならではの「格差」があったようで、支援にも時間がかかり、生活。。というか生きてゆくことが難しい時期が本当にあったのです。支援が始まってからも水は飲料水だけが配給されたので、入浴したのは それよりもずっとずっと後のことだったそう。

やがてお店を出るとき、居酒屋さんのご主人が「活動、ありがとな。夜道が暗いからこれ持って」と言って、小さなLEDライトの付けられた使い捨てライターを渡してくれました。

宿舎に帰ると、NくんもTさんもすでに熟睡していましたが、住民ボランティアさんは深夜まで作業中。なんと翌日、目の前の地域集会所の駐車場で「盆踊り」を企画しているんですって! 「まあ。。住民さんもあまりいないから、それだけ集まるかわかんないですけどね。でも子どもたちが楽しみにしてるから」と言って作業を続けられ、ボランティア仲間の人たちもずっと出入りが続いていました。

翌朝、早く起きて、周辺を見て回りました。トップ画像は市立渡波中学校で、女川に続く国道に面し、背後100mほどで海に至るこの学校ももちろん被災して、いまは瓦礫置き場になっていました。中学校のお隣はやはり市立の女子商業高校。

こちらも体育館がひどい損害を受けていましたが、そのままになっていました。

そのまま石巻市街に車を走らせて様子を見に行きました。2ヶ月前にも来たばかりですが、刻々と変わっていく街並みの変化を確認だけはしたいと思いまして。