ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

陸奥への想い…『融』(その6)

2013-09-05 09:41:20 | 能楽
ロンギの真ん中で両断するようになってしまいましたが、名所教エがその内容のままで問答からロンギに形を変え、今度はロンギの中でシテは汐汲としての仕事を忘れていた、と僧との長話をいきなり中断して、田子(担い桶)を持って汐を汲む作業に移ります。

地謡「嵐更け行く秋の夜の。空澄み上る月影に。
シテ「さす汐時もはや過ぎて。
地謡「暇もおし照る月にめで。
シテ「興に乗じて。
とノッて正へ出
地謡「身をばげに。忘れたり秋の夜の
と右へ外し打合せ。長物語よしなやとワキへ向き辞儀まづいざや汐を汲まんとてとシテ柱に戻り下居、田子の担い竹を首にかけ立ち上り。持つや田子の浦。東からげの汐衣と汐を汲み。汲めば月をも袖にもち汐のと両袖を見。汀に帰る波の夜のと脇座の方へ出。老人と見えつるが汐曇りにかきまぎれてとシテ柱へ向き出、田子を後ろに捨て跡も見えずなりにけりと両手を下ろしシテ柱にてトメ。跡をも見せずなりにけり。と右へトリ橋掛リへ行き幕へ中入

『融』前半の山場の場面ですね。ロンギの中で名所教エが突然打ち切られ、シテは田子の担い竹を首に掛けると汐を汲む型をし、これが終わるとこれまた突然に中入となります。急展開が続くことで生まれる緊張感がうまく計算されているのだと思いますが、それだけに演者にはそれぞれの型にうまく区切りをつけて、手回しよく、鮮やかに型を決めなければならない場面でもあります。

さて汐を汲む型なのですが、シテ柱に戻って田子に向かい下居、担い竹を首に掛け両手を水平に伸ばして竹の両端…田子を吊す紐の結び目のあたりを持つと、通常はクルリと左に向いて大小前に至り、そこから正へ出ながら両手で田子を揺らしてはずみをつけ、前へ投げ出して、下がりながら横たわった田子を手前へ引く、という型なのですが…替エの型として担い竹を首にかけたまま正面の舞台先まで出て、田子を片方ずつ舞台の外に出して下から汲む…ちょうど井戸から水を汲むような型をすることがあります。

同じく田子を使う能『玄象』でもこの型はあって、こちらでも両様の型で演じられますが、どちらの型もシテは田子がまったく見えないのでうまく型をこなすのは難しいと思います。前者の田子を投げ出す型は、田子を前後に振るところが自分のどうも役者の「素」が出てしまいやすく、また田子を投げ出すときに大きな音を立ててしまうとか、それからこれは役者の都合だけの話ですが、投げ出すことで田子が傷つく、ということもありますね。後者の舞台の外に田子を出して汲む型は、型をこなすのに時間がかかるのと、舞台の本当に先まで出ないと型ができないので、シテは舞台から落下する恐怖と戦いながら演じることになります。

汐を汲んだシテは、両袖を見まあすが、これは二つの桶に汲んだ水に満月が映り込むのを見る心。『松風』と同じような趣向で風流で結構なのですが、汐を汲む型に手間が掛かると、ここで時間を掛けることができずに興趣をそぐ結果に。。やがてシテは再び田子を持ち上げて脇座の方へ出、振り返って幕の方へ向くと歩み出し、途中で田子の担い竹を首からはずして後ろに捨て、手を下ろしてシテ柱へサラサラと行きしっかりトメ、それから静かに中入します。

このところ、だんだんとシテの姿が透明になってゆく、というよりは、突然フッと姿が消え失せる、という感じなのだと思います。同じような例は意外に多くあって、面白いのは『蟻通』の終曲ですかね。これはシテは神官の姿で現れた神で、能の最後にようやく本性を明かすと忽然と姿を消すのですが、地謡が謡う中、シテは手に幣を持ったまま舞台から幕に退場します。このときシテは幣を持った手を高くあげて、舞台から橋掛リに抜けるときにわざとその幣をシテ柱に当てて、ポトリと下に落とします。シテはかまわずそのまま幕に引くのですが、いかにも姿だけが消えて持ち物の幣だけが持ち主を失って舞台に残された、というような効果を出します。

ほかにも『鵺』の中入ではシテ柱でヒラキながら舟の櫂竿を捨てます。もとより舟に乗って登場した、という設定の前シテで、登場場面ではこの櫂竿を持って舞台に現れるのではありますが、舞台が進行するとシテは舞台の中央に下居し、このとき後見が一度竿を引きます。陸上に上がってワキと対面した場面なので、通常ならばこれで竿は不要になり、登場の時と同じく舟に乗って消え去る場面では竿がなくても演技は成立すると思いますが、わざわざ中入の少し前に後見は再び竿をシテの傍らに出し、シテはそれを持って立ち上がると、前述のようにシテ柱で竿を捨てて中入します。明らかに「捨てる」ために竿を出すのであって、ぬえがこの曲を勤めた際も師匠からガシャンと音を立てて竿を捨ててよい、ヒラキも強く演じるように、と稽古を受けました。『鵺』の前シテは鵺の化身の舟人なので、その本性を明かして中入する場面では、得体の知れない化け物の性格を描き出すのに、化身の姿は忽然と消え失せて竿だけが無遠慮に打ち捨てられた、という効果を出すのでしょう。

『融』の本性は神でも化け物でもありませんが、まあ颯爽とした若い男性としての潔さを、この田子を捨てる場面で表現しているのかもしれません。