ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

陸奥への想い…『融』(その13)

2013-09-27 04:35:24 | 能楽
観阿弥が催行した有名な今熊野の勧進猿楽(応安7または永和元年)で将軍・足利義満に見いだされたとき世阿弥は12歳。義満は世阿弥のわずか数歳年上で当時17歳でした。

義満が少年世阿弥を溺愛したのは著名ですが、義満は北山文化の中心人物として名高い文化人であり、『新後拾遺和歌集』を勅撰和歌集として編むよう後円融天皇に奏上するように和歌に関心が高い人物でもありました。じつは後円融天皇は義満より1歳年下で、奏上を受けたとき16歳でしたから、当時の朝廷や室町政権は同年代の天皇と将軍によって作り上げられた文化サロンの様相を呈していたようで、世阿弥は身分は低かったものの、その中で芸能者という特殊な立場で影響を受けたのでしょうし、彼らの文化的な指向に沿うような能を書くことを志したことでしょう。

義満の文化サロンに入った当時の世阿弥の年齢を考えるとき、そして世阿弥の長男・観世十郎元雅が38歳で亡くなっていることから『隅田川』『弱法師』など深い心理描写を描いた能が彼が20~30歳の年代に書かれた可能性があることも考え併せると、世阿弥が多くの能を書いたのは、義満が政治とともに文化的な活動を旺盛に行っていた20歳台の頃からであるでしょう。とすれば世阿弥の作能は10歳台から始まった可能性は強いと考えられます。三条公忠のように義満が世阿弥を寵愛するのを苦々しく思っていた古参の公卿がいる中、三条公忠よりもさらに年上ながら世阿弥を絶賛した二条良基は15歳の世阿弥を自邸での連歌会に呼んでその歌を称賛しましたが、その目的が義満に取り入る目的でもあっただろうとはいえ、すでに形を成した和歌を世阿弥が詠んだのは確実なわけで、世阿弥は寵愛を受けて堕落したのではなく、彼らの文化サロンの中で自らの才能を開花させて行ったのでした。

ぬえはねえ、『敦盛』は世阿弥がこの頃。。10歳台で書かれた能なのではないか、と考えているのです。世阿弥の能の中でもとりわけ平明な文体の『敦盛』は、世阿弥の中では試作的な位置にあった能であるように ぬえには思えます。そして、『高砂』『融』はそれに続く作品ではないでしょうか。それは構成が似通っている、という以上にこの2つの能には、和歌に対する傾倒という一致した傾向が見られるからです。

『高砂』は真ノ脇能と呼ばれ、武家によって尊ばれた『弓八幡』とともに脇能の中でも別格に大切にされている曲ですけれども、内容は脇能の中では異端で、神仏や寺社の縁起が語られるでもなく、また神威を礼賛するでもなく。。この曲の中で語られるのは、ひたすら和歌の徳の賛美なのです。一方の『融』も、一見すれば和歌はあまり現れていないようにも見えるのですが、じつは観客が和歌への知識を持っていることが大前提になっているかのように、多くの和歌が取り入れられているのでした。

ちょっと見ただけでも『融』の中には次の和歌がちりばめられています。

シテ「陸奥はいづくはあれど塩竃の… (古今集・東歌)
シテ「心も澄める水の面に照る月並みを… (拾遺集・源順)
シテ「君まさで煙絶えにし… (古今集・紀貫之)
ワキ「音羽山音に聞きつつ逢坂の… (古今集・在原元方)
シテ「大原や小塩の山も今日こそは… (古今集・在原業平)
アイ「塩竃にいつか来にけん朝凪に… (伊勢物語)
シテ「さすや桂の枝々に光を花と散らすよそほひ… (古今集・源施)

…が、一見してはそうは見えないものの、前シテの名所教えに続くロンギは、シテはすべて和歌を下敷きにして名所をワキに教えているのでした。