陰と陽は互い互いである。こちら側での陰は向こう側からは陽になっている。だから、こちら側の陽は向こう側では陰となって映る。イギリスの朝が日本の夜になっているようなものだ。こちら側はもちろんこの世だ。向こう側をどう呼べばいいのだろう。
或いは呼吸の呼気と吸気のようなものか。吐いているときの胸は虚になっていくけれど、吐き出したところの外気はそれだけ満になって行く。吸うとそれが逆になる。こちらが満になって外気が虚を為す。
こちらを留守にしているときには、それは即ちあちらにいるということだし、あちらを留守にしているときにはこちらに居を移しているというのと同じだ。行ったり来たりしている。それが生死に見えている。
こちらに居るときには、こちらを楽しんでいればいいのだ。こちらにいないことを悲しむよりはずっといい。あちらに引っ越しをした者はあちらを楽しんでいればいいのだから。今の此処を是とするだけでいい。非在の向こうを非とすることはない。それはおもんぱかりではなく、取り越し苦労というものだ。
陰もなかなかこれで味わい深いところがあるのだ。活動の陽もそれはそれで賑やかでいいけれども、静寂の陰にはやすらぎがある。陰と陽は縦糸と横糸を為して大きな織物を織っているのだ。生死という美しくかがやく織物を織っているのだ。これは毘盧遮那如来に献上出来るほどの無限大で無尽の神秘的織物である。
そんなことを考えてさぶろうは遊んでいる。遊びは楽しむに限る。暇なさぶろうだ。夢想だ。たあいもない。