きみを見てるよと言う。きみとは藪椿のことである。藪の中にひっそりと咲いている。大声も出さず、自己主張もせずどこまでも慎ましいので、藪の中まで来る客はめったにいない。だからどれだけ健気に咲いていても賞賛を浴びることはない。そこでさぶろうが、きみを見てるよ、きみは美しいよと声をかける。目白がやって来て、それはわたしたちの仕事ですよと鳴きたてる。ああ、きみたちのことを忘れてたよと謝る。静かだった冬の藪がこうして一度に賑やかになる。
ろうばいが咲いている。匂っている。黄色く白い。あちこちの家の庭に咲いて匂っている。梅に似ているが梅ではない。それでもそれが梅を思わせて、季節を賑やかにする。勢いが強い木なので枝葉を大きく茂らせる。花の肌が蝋燭のように冷たくつるつるしているのでこの名を得ているのかもしれない。さぶろうは今日蝋梅をたくさん見た。縁起がいい花なので、さぶろうの縁起もよくなったと思う。
朝ぼらけ 有明の月と みるまでに 吉野の里に ふれる白雪
坂上是則(百人一首 31番) 『古今集』冬・332
夜明けだ。吉野の里に白雪が降っている。仄かな明るさがある。月が残っているかと思った。雪が降り続いていたのか。
吉野の里は雪が深いのである。「朝ぼらけ」は夜が明け初めて明るくなって来る頃のこと。「有明の月」は夜明けを照らす明るい残月。底冷えがしているので、月光と間違えるはずはないのに、歌人はそこにも月を照らして見せたいのだろう。名のある文人古人たちがそうしてきたように。延喜6年(908年)、この冬、彼は大和権少掾に任ぜられて大和に赴いた。任官の地はやはり遠いのだ。春が待ち遠しい。春になればこの里は一転して桜の名所となる。それまでを待とう。
「朝ぼらけ」「有明の月」「吉野の里」「白雪」これだけ名役者が揃うと由緒正しい立派に芝居が出来るだろう。役者を従えた短歌がここで美しい舞を舞っている。おごそかに。さぶろうは、1100年ほど前の美しい短歌の舞を、堪能した。大和心の舞はこれほどの時を経ても色褪せてはいなかったようだ。
細長のプランターに20球植え込んであるチューリップを買って来た。情熱の赤。1280円だった。これを3箱。探し回った。すでに発芽している。春になる前に咲き出すだろう。道路に沿った路地に移し替えておこう。道を行く人がこれを見て楽しんでくれたら、嬉しい。さぶろうは老人。人様のためになるようなことは何もしていない。ささやかだが、これが、つまり美しい春の花を見てもらうことが、彼に出来るある種の社会奉仕かもしれない。
さぶろうに社交性はありません。これは威張ることではありません。社交性はあった方がいいのです。閉じているよりは開いていた方がいいのです。扉は、閉じるためにもあるけれど、開いて外へ出て行くためにもあるのですから。外の世界の広さに気づくためにも。でも、内の世界の広さを無視するものではありません。それは内の世界の広さを気づかせてくれることに貢献してくれるはずですから。
天が与えるすべての豊かさを受け取る一日にしよう。レシーブの能力を高めることにしよう。豊かにある豊かさを受け取らない手はない。そこに豊かにある豊かさを見て聞いて嗅いで触れて感じるだけでいいはずだ。こちらがことさらな行動に出なくとも。天は豊かである。地は豊かである。それをよろこぶ。よろこんだら、受け取ったという証になるだろう。天が与えるすべての豊かさを受け取ろうとしても、実際にはたった一つの豊かさだけでさぶろうという小さな容器はいっぱいに満ちてしまうだろうけど。9時半。光が差し込んだ空が東の方から西の方へ広々と広がって行く。
ほんとうにしなければならないこと。それをしていよう。しないでいいことはしないでいよう。ほんとうにしなければならないこととはなにか。さぶろうが考えている。分かるだろうか、さぶろうに。
なんにもしなくてよかった。しなくてよかったことをしてたんだった。なんにもしないでも喜べたんだった。さぶろうがすうすう息をしている。息をすることを喜んでいる。これだけでよかったんだった。しなくてよかったことはもうしないでいい。それが分かってほっとしている今朝のさぶろう。でもするだろうな、きっと。しなくていいことばかりをするだろうな。
おはようございます。目が覚めました。生きております。ありがたいことでございます。すうすう息をします。それだけで嬉しくなります。多くを望まなくてもいいのですね。息をする、それを嬉しがっていたらよかったのですね。それだったら楽々です。賢者でなくともよかったのですね。偉大な者でなくてよかったのですね。さぶろうに息をさせているのは、しかし、誰なのでしょう。さぶろうを楽々にさせている力はどこから来ているのでしょう。