明日は通院の日。C型肝炎、糖尿病などの経過観察検査日。朝ご飯を抜いて行かねばならない。でも、腹が減った。ぐうと鳴る。何か喰いたい。でも、10時以降は食べてはならない。諦めるしかない。寝てしまえ。
諸仏出世の一大事因縁は、衆生をして仏智見を開かしめ、衆生に仏智見を示し、衆生に仏智見を悟らしめ、衆生をして仏智見の道に入らしめんがためなりと、大聖世尊は示されぬ。 禅宗経典「宗門安心章」より
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1
多くの多くの仏さまがこの世に出現された。これは何故か。生きとし生きる衆生をみな仏にするためである。お釈迦様がこう仰った。
2
衆生が全員、だから、仏に成ってしまったら、諸仏は仏でいる必要がなくなってしまって、廃業する。
3
仏に成ればこの世を仏智見で見ることができる。そうなれば迷妄見でこの世を見ることがなくなるのだ。
4
仏智見とは仏の智慧の眼でこの世を見ることである。仏の智慧の眼でこの世を見ればもはや煩悩は消滅する。
5
煩悩が消滅すればそこからは仏である。わざわざ仏の国にまで出向かなくともよくなってしまう。
6
翻ってものを言えば、仏が仏でいられるのはすべて衆生のお陰である。だから衆生は仏さまに対して大きな顔をしていていいのである。衆生あっての仏であるからだ。
7
たくさんの漁師が網を寄せて逃げようとする小魚を一網打尽に捕獲しようとするようなものである。漁師は諸仏、小魚は衆生である。網は仏智見という網である。小魚は逃げに逃げる。漁師は追いに追う。追い詰める。網に掬われれば仏智見が開けるのである。じたばたはここで終了する。
8
何処で仏智見が開くか。この世に於いてか。あの世を待つのか。
9
仏智見を自力で開く能力はないとすれば仏の力に頼るしかない。
10
この世で仏を恃むか。あの世を待って仏を恃むか。時期の早い遅いがあるが、結局は仏を信頼して仏智見を開くしかない。
11
開かされたら、そこからは己が仏智見になるのだ。開いたことと同じになるのだ。
12
彼はたちまち仏である。諸仏の仲間入りである。
13
仏智見がある。煩悩見もあるが、仏智見もある。それが分かるようになればそこで仏智見が浸透してくる。
14
仏智見は仏にある。だから仏を信頼すればいい。それが分かるようになればそこで浸透圧現象が起こって、仏の仏智見が己が皮膚より浸透してくるのである。
15
ここは仏界である。仏は衆生救済を業にしている。ここは煩悩熾烈な衆生界であるが、それゆえの仏界である。諸仏が充満する世界である。
16
一切合切、仏に下駄を預ければよかったという仏智見、それがここで湧き起こって来るのである。
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さぶろうは今夜こんなことを考えた。間違った推論かもしれない。読者諸氏は自分で自分の推論をたくましくすべし。
さぶろうが一人でいたくなる理由。それはこうだ。複数人でいれば必ず我が儘さぶろうが相手を不愉快にしてしまう。非がいつもさぶろうにある。きっと落ち度がある。これを悔やんで悔やんで悔やむのだ。
ああ、済まないことをしたなあ、気が利かないことをしてしまった、至らないことを喋ってしまった、と悔やむのである。我が非を思い出して思い出して謝りたくなる。でももう相手はいない。結局は謝れない。これが苦しいからだ。原因はさぶろうの我が儘にある。
だから、その我が儘さぶろうを人の中に連れていってはいけないのである。一人でいなければならないのである。今日は人の中に入った。それで幾つかの場面を思い出しては、例の「すまないことをしたなあ」が始まってしまった。これが苦しいのである。
なんというつまらないさぶろうだろうと思う。この自己軽蔑は一種の病気だ。神経衰弱のようなこころの病気だ。治すのにしばらくを要してしまう。
他愛もないのである。蜃気楼のようなものである。現れたかと思うともう消えている。さぶろうの恋心である。
だが、人を恋するということは人を肯定するということでもある。否定よりも何層倍もいい。他者を無残に凍結させるのではなくてそこで発熱をするということだ。相手の存在で動き出すということだ。体中の血が沸いてあたたかくなるということだ。存在が非存在でなくてすむということだ。
美しく見るということだ。生きているということを美しくして見ているということだ。冷淡ではないということだ。無視していないということだ。放っている魅力を受け止めたということだ。
あの方はみどりの黒髪をたくみに曲げて後頭部に高く結んでいる。その分だけ項(うなじ)の白さが大きく現れて光っている。
藪椿が雨に打たれている。藪椿を落ちる雨の雫さえもがあの方の吐息に聞こえて来る。みな蜃気楼である。さぶろうは一言の声も掛けずにその場を去って行った。それであの方は途方に暮れて幾度も吐息の雫を垂れた。
さぶろうはもうすぐ人生の終着駅に着いてしまう。老いて老いている。それに抗うように、さぶろうはいっとき蜃気楼を空に浮かばせてみた。それだけだったが、わずかながら抵抗ができたようにも思った。他愛もないさぶろうである。
「あの方といっしょなら」と思うことがある。思うとそこからこころがふくらむのだ。さぶろうはそのかたをひととき凝視していた。お気づきにはならなかっただろう、あの方は。それでいいのだ。あの方がさぶろうといっしょに過ごしてもろくなことにはならないのだ。幸福にはできないのだ。ほんの一寸ほどもよろこびには導けないのだ。ついにあの方を視界から外すことになった。ふくらませたこころを軽い気球にした。目の前に浮かばせてさぶろうは軽々と帰途に就いた。莫妄想。まくもぞう。妄想をすること莫(な)かれ。これは禅語だ。さぶろうはこの戒律を犯した。妄想をした。あの方といっしょならという妄想を抱いた。遠くにいてお手前をされているあの方の白い首筋が若い蝋梅の蕾のように近くに咲いて鼻に匂った。夜露が蓮の葉を滑って落ちて行くほどの短い時間であったが、それがさぶろうのこころを春の空にした。
おれは何も見ていなかったのかも知れない。場に呑み込まれていただけだったかも知れない。奥深い世界の、その表通りをさっと歩き去っただけだったかも知れない。茶道などというものが覗けるわけがない。何も見てはいなかったのだ、おれは。春の霞を渡っただけだったのだ。
霞を一目散に上昇して空に突入した雲雀たちの声がまだ聞こえている。おれは師匠とお弟子衆の流麗に幻惑されただけだったんだ。
そういう世界があった。それを吸いこんだ。それで今日のさぶろうは完結したのである。それ以上へは踏み込めなかったのである。
ずっととろけていたい。とろとろにとろけていたい。濃密でやわらかな場の甘い匂いをいつまでも吸っていたい。でもそれは切断された。茶会は終わった。帰ってきた。これでいいのだ。別世界だった。
初釜というものを体験させていただきました。津蟹川蟹のように岩場の奥にひっそり隠れて生きているさぶろうには強烈なまばゆさでした。穏やかな柔らかなあたたかな雰囲気にすっかりもっかり呑まれていました。女性は皆様おしとやかな雅な和服。どろどろどろんとした濃茶の回し茶をいただきました。それから一人一人に茶を点てて頂きました。別世界を味わいました。帰ってきました。まだ全身が蕩けてほかほかしています。誘って頂いたお師匠さまに感謝します。ありがとうございました。でももう二度とは行けません。醜悪のさぶろうは不似合いです。