即興詩「オモダカ」
沼の水面に/オモダカが生えた/伸び伸び伸びたので/そこに/蜻蛉が止まる/影が揺れる/揺らすのが嬉しいのだね/
さぶろうが来て/ポチもついて来た/幼なじみも来た/夏は/白い小さな/花もみんな/遊ぶのが嬉しいのだね/
沼の水面に/オモダカが生えた/生えて伸びたので/それで/蜻蛉を誘う/蜻蛉が来る/誘うのが嬉しいのだね/
*
うううん。出来損なったかなあ。
即興詩「オモダカ」
沼の水面に/オモダカが生えた/伸び伸び伸びたので/そこに/蜻蛉が止まる/影が揺れる/揺らすのが嬉しいのだね/
さぶろうが来て/ポチもついて来た/幼なじみも来た/夏は/白い小さな/花もみんな/遊ぶのが嬉しいのだね/
沼の水面に/オモダカが生えた/生えて伸びたので/それで/蜻蛉を誘う/蜻蛉が来る/誘うのが嬉しいのだね/
*
うううん。出来損なったかなあ。
「青い空」
空が青くしている/青く澄みたくて/青く澄みたくて/ならないんだ/
空が青くしている/青く広がって/青く広がって/いるきりだが/
空が青くしている/青くしていると/青くしていると/完成する/
空が青くしている/青く青くなる/青く青くなる/それを見てる/
*
さぶろうも即興で詩を紡いでみました。曲が欲しいなあ。
*
世界はいま此処で完成しているのか、それともまだ完成に向かっているのか。なおなお完成に向かっているとすれば、その先には何があるのか。そこへ行って住んでもみたい。
日本の名歌「いずみのほとり」 作詞 深尾須磨子 作曲 橋本国彦
水よ 水よ きれいな水よ/水よ 水よ きれいな水よ/青い空や すすきの影を映している/水よ 水よ 秋の水よ/水よ 水よ 秋の水よ/
むかし むかし いずみのほとり/天使たちが/子羊たちと遊びました/むかし むかし いまはむかし/
水よ 水よ きれいな水よ/水よ 水よ きれいな水よ/青い空や とんぼの影を映している/水よ 水よ 秋の水よ/水よ 水よ 秋の水よ/
(昭和24年7月 「私たちの音楽」)
*
ああ、美しい美しい美しい。なんともいいようがなく美しい。こんなにも美しい詩が生まれるものなのか。
*
詩人深尾須磨子(1888~1974)は兵庫県丹波の山村の生まれ。こんな詩も美しい。水のように澄んだ美しい目をした人だっただろう。
「望郷」
山があれば 川がある
ふるさとよ
山にきつね 川にごんろく
いまも居るか
ふるさとよ
*
ごんろくは川につかって魚を捕っているのだろう。
わたしのたましいの名前がちゃんとある。らはまろずって。天界神仙界仏界宇宙銀河三千大千世界自由飛行パスポートにはこの名が記してある。これで思いのままになれる。宇宙図書館アカシックレコードにはこの名とともに暗号のような略式自己身体図がついている。指紋のようなものだ。二つとはない。何度生まれ変わろうとこれは一貫している。たとい六道四生を経巡ってそこでどんな姿形をとっていようと、レントゲン撮影すればこれが判明して一目瞭然になっている。その時その時代その世界での魂の修行が、この魂名と略式図をかざせば、スクリーンに映し出される仕組みだ。日本の神もキリスト教の神もイスラム、ヒンズーの神々も、仏も菩薩も明王も、ここへ来て列んでこれを眺めてさぶろうという魂の長い長い苦労を偲んでいる。なにしろ長い長い長い苦労の歴史を引き摺っているので彼らも一応に感激の涙を禁じ得ないでいる。らはまろずっては修行者。今はさぶろうとして生きている。身長178cm、体重61kg。瞳の色は黒。黄色人種。全身脱毛症だから火星人そのものにして山里に暮らしている。しかしこの姿勢特徴として存在しているのもそろそろ終わりだ。
朝は林檎入りレーズンヨーグルト。おいしかった。これに焼き芋を一箇。中っくらいのを。胃袋の負担を軽くしておいた。ほっ、もう11時近くじゃないか。畑が畑の体温で雪を解かせて土を見せてきた。さっそく白菜を抜いて来た。雪に埋もれている間にじりじり甘くなっていることだろう。お腹を空かせたヒヨがベランダに吊り下がっている干し柿を食べている。ここから3mくらいの近距離のを。すぐそこに鬼のさぶろうがいるというのに。よほど我慢ができなかったと見える。