葬儀はなんのためにやるか。一説に、行き先を決めるためだという説がある。死者がバスのターミナルに行ったらそこへバスが来る。バスには行き先が書いてある。「○○方面行きの方はご乗車下さい」とアナウンスがかかる。クリスチャンの方は天国へ行くバスに乗る。神道の方は神の国へ行くバスに乗る。仏教徒だったら仏国土に行くバスに乗る。
行く先が定まっていないといつまでもバスに乗れない。それは困る。困らないでいいように行き先を決める。それが葬儀の役目だという説。
ほんとうはどのバスに乗ってもいいのだろう。行った先でみな歓迎を受けるのだから。それに宗教の違いなんかで差別されないはず。そんなふうにも思う。
仏教の経典には「俱会一処(ぐえいっしょ)」とある。みな俱(とも)に一つの場所で落ち合おう、ということだ。その通りだ。思想信条の自由はあの世でも有効していると思う。みすず詩人流の「みんな違ってみんないい」じゃないか。みんなわいわいがやがやでいいと思う。
行き着くところは寛容な世界のはず。仏陀も神も天照大神も寛容の精神の持ち主だと思う。
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じゃ、葬儀は何のためにするのか。「長いことお世話になりました」「いや、こちらこそ。あなたには大変お世話を頂きました」「有り難うございます」「こちらこそ、ありがとうございます」のお礼言上を交わすためなんじゃないかなあ。それとも送別会や慰労会なのかなあ。この世の卒業式なのかなあ。ともあれ、あんまり重々しくなくていいのかもしれないなあ。