<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

葬儀は何のため? 諸説あるかなあ

2016年12月29日 20時17分20秒 | Weblog

葬儀はなんのためにやるか。一説に、行き先を決めるためだという説がある。死者がバスのターミナルに行ったらそこへバスが来る。バスには行き先が書いてある。「○○方面行きの方はご乗車下さい」とアナウンスがかかる。クリスチャンの方は天国へ行くバスに乗る。神道の方は神の国へ行くバスに乗る。仏教徒だったら仏国土に行くバスに乗る。

行く先が定まっていないといつまでもバスに乗れない。それは困る。困らないでいいように行き先を決める。それが葬儀の役目だという説。

ほんとうはどのバスに乗ってもいいのだろう。行った先でみな歓迎を受けるのだから。それに宗教の違いなんかで差別されないはず。そんなふうにも思う。

仏教の経典には「俱会一処(ぐえいっしょ)」とある。みな俱(とも)に一つの場所で落ち合おう、ということだ。その通りだ。思想信条の自由はあの世でも有効していると思う。みすず詩人流の「みんな違ってみんないい」じゃないか。みんなわいわいがやがやでいいと思う。

行き着くところは寛容な世界のはず。仏陀も神も天照大神も寛容の精神の持ち主だと思う。

じゃ、葬儀は何のためにするのか。「長いことお世話になりました」「いや、こちらこそ。あなたには大変お世話を頂きました」「有り難うございます」「こちらこそ、ありがとうございます」のお礼言上を交わすためなんじゃないかなあ。それとも送別会や慰労会なのかなあ。この世の卒業式なのかなあ。ともあれ、あんまり重々しくなくていいのかもしれないなあ。

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Y君は大学からの僕の友人 大切な友人

2016年12月29日 19時55分46秒 | Weblog

Y君は大学時代の同級生。仲良くさせてもらっている。彼は語学の優等生だ。僕は劣等生。釣り合いが取れないのに、よく遊んでもらっている。没になりそうな僕を、引き立ててもらっている。いろいろな刺激ももらう。助けてももらっている。励ましてももらっている。18歳で出遭ってからだから、もう付き合いも50年を超える。このブログも読んでくれているらしい。彼は朝が早い。4時、5時には起きてこのブログを読むこともあると言っていた。40キロくらい離れたところに住んでいる。家の周囲には広い畑がある。そこに農産物を作っている。そこはこの僕と共通する。それでその話をよく話題にする。この頃彼から電話がない。体調でも崩したのだろうか。僕がこのブログで「一人がいい、一人が自由で気ままでいい」といったことを書いているから、それを慮(おもんぱか)って、遠慮をしているのかも知れない。だったらすまないことだ。彼はまだ現役で仕事をしている。日曜には暇が出来るらしい。で、日曜には二人で近くの温泉にでも行こうという話になるのだが、この頃はそれもお流れになっている。彼は酒を遣らない。だからちょっとその分は窮屈である。姿勢を崩さない。僕は酔っ払う。これで日常がガタガタに崩れてしまう。すると見通されたような気分になってしまう。不甲斐ない僕はたちまち白旗を揚げねばならない。でも彼はそんなだらしない僕の愚痴にも親身になってよく耳を傾けてくれる。彼は僕の大切な友人である。

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全身濃い深い青緑のビタミン大根

2016年12月29日 17時39分43秒 | Weblog

ビタミン大根は全長10cmほどしかない。お尻の1cmを除いて青緑。その青緑が深い濃い。丸々としている。健康にはち切れているという感じだ。珍しい。我が家の畑で育てていた。それを今日初めて収獲した。細かく千切りにして生で食べた。口にした途端に元気を授かった。そういう感じがした。畑には三列育っている。寒さが募ってくるともはやこれ以上の成長は望めないだろう。葉っぱの緑も濃い。青々青々としている。人様にお分けしたらきっと喜んでもらえそうだ。シャキッとして断然おいしい。

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わたしの悔過の行

2016年12月29日 17時20分01秒 | Weblog

麻痺をしているせいで血流が滞って左足が全体、黒紫色のチアノーゼ斑点を浮き立たせている。手に触れると凍えている。まるで木枯らしの舞う小学校の運動場の鉄棒だ。冷え切っている。炬燵の中に足を突っ込んでいてもあたたまらない。じんじん痛い。冬になると決まってこうだ。これはしかしわたしが引き受けている業(ごう=カルマ)である。逃(のが)れるわけにはいかない。受け切ってしまわねばならない。わたしがこうして人を苦しめたことがあったので、今その人の受けた苦しみをわたしの身で再現させて、因果の道理をわたしに推し量らせているのだ。わたしが痛がり辛がり苦しがると悪業がその分消滅をしていくことになる。まだそれは終わらない。今度の一生が過ぎるまでずっとこのままかもしれない。でもかならずゼロになる。そこまでは懺悔(さんげ=償いの実践)が続く。悔過(けか=過ちを償う行)が続く。

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牛蒡をピーラーで薄く薄く削り出す

2016年12月29日 17時11分21秒 | Weblog

わたしはさっき牛蒡をピーラー(皮むき器)で薄く薄く剥きました。

根気よく時間を掛けて長い牛蒡2本分も。水を張ったボールにたっぷり一杯になりました。

こんなこと(こつこつとする単純作業)をするのが大好きです。変な老爺です。

これは何にでも使えます。鍋物にしてもいいし、すき焼きにもいい。味噌汁に加えてもいい。なにしろ鰹節の削り節の薄さだ。

もちろんきんぴら牛蒡にも。牛蒡の天麩羅にも。煮物にも。使い前が広い。

早く使い切ってしまわないと、独特の薫りが逃げてしまう恐れがありますが。

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わたしにも夕暮れ

2016年12月29日 16時57分26秒 | Weblog

夕暮れる

わたしにも夕暮れ

おだやかな夕暮れに

わたしがいることになる

この巡り合わせ

おだやかなわたしと出遭うときが来ている

 

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それが嬉しい

2016年12月29日 13時54分09秒 | Weblog

ベゴニアが咲いている。ベランダの濡れ縁で。冬の淡い日射しが射している。光を受けて桜の花の色に染まっている。言挙げするに足らぬことかも知れないが、今はそれが嬉しい。仏陀の世界を証明しているようで嬉しい。小さな花の口で、安心の世界を囁きかけてきているようで嬉しい。

 

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それを心配することはない

2016年12月29日 13時29分30秒 | Weblog

それを心配することはない。それは仏陀のなされることである。

われわれがすることは安心をすることである。此処でわれわれがすることは安心をすることである。

仏陀がわたし宛に届けられた安心を、懐深くに収めて、日々を安らかに嬉しく生きることである。

あれこれ道をはみ出したようにして不安がることがあるが、不安のない世界の構築されるお仕事は、それは仏陀のお仕事であって、われわれのすることではない。

仏陀を信じるということは、不安のない世界が実現しているということを信じることでもあるのだ。

我々は何処から来て、いま何処に居て、何を為し、これから何処へ向かって行くか。

我々は仏陀の法界から来て、その法界を吟味し酌量し、安堵し安心するために此処を与えられ、此処に留まってその過程を喜び楽しみ、満喫し堪能し、また仏陀の法界に帰って行くのである。

さぶろうはお昼を過ぎて、なんだかちょっと不安に襲われた。そしてそれを抜け出ようとして藻掻いた。その間で以上のようなことを考えた。いつものような当て推量であるが、それで不安がやや軽くなった。

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非所在という所在のあり方

2016年12月29日 13時15分26秒 | Weblog

非所在という所在のあり方がある。そこに暮らす者は、所在を示すことは出来ないが、所在している。なぜ所在を持たないか。形を持たないからである。色を持たないからである。われわれは形を持つこと、色に現れることに慣れているが、それは一つの方便のあり方であって、それが絶対というのではない。所在の方式というのはさまざまにあるのである。アドバンスする度にわれわれは次元を高くして行く。そしてそれに合った方式を斬新にするのである。心配は要らない。安心は確保されていくのである。何処へ行ってしまっただろうかとわれわれはこの世を後にした者を不安がるが、心配は要らない。安心はますます強く確保されているのである。

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夜中の訃報

2016年12月29日 10時15分48秒 | Weblog

昨日の夜中、訃報が入った。福岡市内在住の家内の親類のおばさんが亡くなった。一人で暮らしておられた。お風呂の扉の前に倒れておられたらしい。翌朝デイサービスに下りて来られないのでマンションを上がって行くと玄関が開いていた。そこで発見された。何故扉が開いていたかは謎である。検視の結果は突然の病死。近くに息子も娘もいるがそれぞれ一家をなしている。いまわのときには間に合わなかったらしい。随分のご高齢である。ご高齢であったが、気持ちがしっかりしておられたので、独居をよしとされていた。病院に足繁く通って薬を飲んで健康に留意されていたらしいが、最期はあっけなかった。今日がお通夜。明日が葬儀である。PPKとはぴんぴんころりの略語だそうな。手厚い世話もせずにころりと死なせてしまったという悔いが、遺された家族に後付けされる。遺族が辛いだろう。

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