わたしの小さい窓からも空が見える/窓を塞いでいるカーテンを/開けさえしたら/空が見える/わたしの窓が小さいからといって/空が小さくなったりはしない/大空は大空である/春の空は春の空である/
わたしが小さくても大空は大きい/これでいいんだ/わたしは小さくしていても大丈夫/大丈夫大丈夫/二つ合わせたら大丈夫になっている/大があるから小がある/小があるから大がある/これは互を認め合うためだったんだ/
おかしいぞ。この頃、顎髭が生えて来る。白い山羊のようなぴょろぴょろの髭だけど。全身脱毛症が改善されて来たのかな。一週間に一回は髭剃りの登板になってきた。この調子で進んだらまた黒髪が頭を密林にすることもあるのかな。だったら青春が出来るぞ。美しいメッチェンにだって会えるぞ。臆せずに会えるぞ。てったって、こっちがその気でも、肝心のメッチェンはその気にはならないだろうけど。ま、いいじゃん。夢見てるだけでいいじゃん。そわそわそわそわ。いつまで経っても成長しないさぶろう。俗人さぶろう。でもこれが正体。
お外の掃除が出来た。箒の目がついたらそこに清潔が居座った。鮮度がぐんと膨らんだ。これで正月らしくなってきたぞ。うひひひひ。なんてったって働いたって感じがした。寒さをものともしなかった。そういうところもいいなあ。小さい自己満足。
いずれわたしは仏陀に見(まみ)えることになる。「なるだろう」ではない。そうなる。これは確信である。71年を生きたわたしの確信である。善悪あれこれ娑婆の行を積んできたわたしの明るい予見である。
これは、しかし、わたしに限定することではない。誰もがこの道を歩いているのである。そういう方向を向いて歩いているのである。
仏陀へ仏陀へと進んで行っているのである。嬉しいではないか。仏陀はわたしを抱きしめるであろう。ここへ至り着いたわたしを抱きとめるであろう。
わたしに新しいドラマが生まれるであろう。どんなドラマか。それは知らない。今は証(あか)されていない。しかし、わたしは仏陀とともにいるのである。不安はいささかもないであろう。
永遠のいのちの仏陀の世界である。そこでは永遠を見通す力が与えられるであろう。
*
なあんて、さぶろうの独り言。ぶつぶつぶつぶつ。
わたしたちもそうだったのである。譲られて譲られてこの場を我が物としたのである。譲るということは去って行くということであった。譲られて初めて我が命の場が出現したのである。譲られた者は次には譲って行かねばならない。住みよいからといって長々と場を独占してはならない。死者は行く者である。譲って行く者である。
しかし、次へ次へと向かっているので、次の舞台でもまた同じことが起きているのだ。わたしたちは前進を続けているのだ。死んで生きて生きて死んで、そうやって場を譲り合って、新しい時へ新しい時へと進んで行っているのだ。前進をして行っているのだ。心配は要らない。いままでの馴染みの場所を譲ったからと行ってそれが損失になっているのではない。相互扶助の役目を分担しているだけなのだ。相互扶助によって互が益をもらっていく。
地球に生きて死んでここを相互扶助の実践の場としている者に永久(とわ)の栄光あれ。
死は軽率で無益で無秩序で、一見無駄な徒労に見えているが、そうではないのだ。大きなカラクリの中で大きな役割、正しい役割を目の当たりに演じているのだ。わたしが死ぬということはそういうことでもあるのだ。
明日一日で2016年がなくなってしまう。なくなってしまうとそこに突如として2017年が迫り上がってくる。ここらへんのカラクリにとても興味を引かれる。はたしてほんとうに2016年は埋没してしまうのか。消滅してしまうのか。影も形もなくしてしまうのか。そうだとするとそれは何故なのか。偏にそれは新しくするためである。世界を新しく設定するためである。というふうに言えるのかも知れない。2016年に713月があって、さらに14月があって、それがどんどん続くばかりで打ち止めにもならないとすれば、新しい2017年の登場はないのである。われわれは新年を迎えられないのである。明けましておめでとうなんかの挨拶を交わせないのである。去って行くということが、どれほど意味深長なことかがこれで判明するであろう。その通りなのだ、われわれが姿を消していくのはそのためでもあるのだ。次の人、また次の人に、潔い新世界を提供して行くためでもあるのだ。
「一文不智の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじうして、智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」 法然上人「一枚起請文」より
*
仏法は愚鈍の身を持つ者の救いの道である。もちろん俊英の者、開明の者の道でもある。愚鈍の身はしかし自力では仏法の扉を開く力はない。だから自力以外の力を頼まねばならない。俊英の者、開明の者は努力精進によって自力で扉を開くことができる。力量を示すことが出来る者はしかしその極々一部である。仏と同じほどの智慧を得た者に限られてくる。それでは助かることが出来ない者はここから遠離っていくしかない。つまりは助からないで終わってしまう。
われわれは己の智慧才能をひけらかす。自慢にしたがる。一部のエリートになりたがる。なったふうに思い込む。特権意識を持つ。支配する側に就きたがる。そういう人は、だから、己以上の存在を認めたがらない。他力に頼ることを恥じる。依存しないでいいという算段、腹積もりをする。それ以上に、己を他者の見本にさせる。己の論に背く者を許さない。なんでも知っているぞの顔になる。それが日常の挙措になる。
己を高くし得ない者はではどうすればいいのか。この問いが起きる。法然上人の時代にも多くの人たちがこの問いを起こしたであろう。戦乱の世である。殺す殺されるが日常の時代である。租庸調、兵役苦役をも逃れられなかったであろう。天変地異に逃げ惑ったであろう。天災人災に苦しめられていたであろう。疫病難病にも為す術がなかったであろう。文字の読み書きもできない人たちもいたであろう。
しかし、一文不知の受け止めは案外難しいのだ。一文くらいは知っていると思いたいのだ。人には自尊心がある。智者のふるまいをして己を少しでも値打ちがあるように価値評価しておきたいのだ。念仏ができるまでに落ちるのは案外に難しいのだ。己を落として掛かるのは至難の業なのだ。落ちて落ちて落ちまくらないと念仏が口から出てこない。絶対他力に頼れないのだ。
法然上人は無智になることを勧められた。無智であることと無智になることは違う。無智であっても無智にはなれない。無智の滝壺に下りて行って初めて滝の高さが仰げるのである。念仏には何も要らないのである。知識も知恵も要らないのである。ここがまた難しい。智者を自認している者には法外に難しい。
さぶろうは、アメーバブログでもブログを書いています。8888waohでヤフー検索するとここへ辿れます。「嬉しいね、わっはっはっは、ワオワオ」をもじっています。今日も幾つか書きました。いつも読者数がごくごく希です。内容が黴びた線香蝋燭臭いんですよね。あまり読まれてはいません。わっはっはっはになっていないところ、これもミソです。
「わっはっはっは」がいいですよね。万事こうして笑い飛ばす。じめじめしない。恨まない嫉まない蔑まない。これができればいいですよね。「ワオワオ、やったぞー」もいいですよね。何かを自分でしなくても、それを傍で見たり聞いたりして、「ああ、そうなんだなあ、そうだったんだなあ」などと思って、揺れている振り子をしばらく止める。そしてそこで伸び伸びした開放感に誘われる。どれも願望ですけど。
*
昇って来た日射しの熱で霜が解けて木々の枝先の雫がきらきらきらきら光っています。小さい小さいきらきらですが、きれいです。ここに焦点を当てているとなんだかこちらまできらきらきらきらができそうな錯覚に誘われます。視界を狭くするというのも一利があります。
外気温が一挙に下がっている。冬の小鳥たちはどんなところで夜を過ごすのだろう。この夜寒をどうやってしのぐのだろう。霜が降りてこないところ、屋根があるところが森の中にあるのだろうか。火を焚いてあたたまることはできないだろうから、ただ互いに寄り添って温め合うしかないはずだ。山からは木を枯らすほどの木枯らしが吹き下ろして来るだろうし。寒さで到底眠れなくて、ちらちらする満天の星を眺めていたりするのだろうか。心配は要らないだろう、しかし。彼らにも知恵がある。草藁や産毛で編んだ家のような上等な巣が出来上がっていて、そこは案外にふかふかとしているのかもしれない。櫟の広い大きな枯れ葉が布団の役をしているかもしれない。