<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

窓いっぱいの春 : 山頭火を読み散らす

2016年12月01日 19時40分21秒 | Weblog

窓を開けて窓いっぱいの春     山頭火

窓というのは不思議な物体である。隔てることができる。窓の外と窓の内をそれで隔絶できるのである。しかし、窓は、横着を図ってはいけない。窓がそこへ入り込んできて、それを成し遂げたかのように錯覚をしているだけである。しかし、窓の内側二重している住人にはそれは錯覚とは映らない。やはり、窓の外と窓の内があると思い込んでしまって疑わなくなる。

窓を開けると窓の外に春が来ている。たしかに窓いっぱい全部が春になっている。しかし、その窓を取っ払ってもこの状況は変わらないのである。

窓をそこにこしらえたが為に、そこに「窓いっぱい」という錯覚が生まれたのだ。窓くらいの大きさの春なんて、そんなに魅力があろうはずはないのだけれど、あるように見えてしまう。で、感嘆の声を上げ、感歎の俳句を作って提示してみせるのである。

いやいや理屈はもう言うまい。山頭火は窓いっぱいの明るい温かい春を感じて悦に入っているのだから。彼は、それまではしっかと閉じていた窓をともかくもここで開け放ったのである。窓を以て己の障害物としていた己の小ささを破ったのである。

悟りは窓を設けないところに成立するが、ここでは窓があったので成立したのである。いやいや、そのためにこそ家々には窓がついているのだ。悟りを得る便利に供するために。

話を元に戻す。山頭火の心の窓が開いたのである。どこもかしこも春だということを感得しえたのである。目出度いではないか。暗さが売りの山頭火にしては上出来だ。ここを打ち破って明るさへ躍り出て来たのだから。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

肉体の手と精神の手

2016年12月01日 19時18分30秒 | Weblog

手がある。右手と左手を擦(こす)り合わせる。擦ることが出来る。精神の手だったらこうはいかぬ。擦ることなどは出来ぬ。肉体は物質である。物質は目に見える。形がある。大小がある。感触がある。それがそこにあることが、だから、分かる。精神の手だったら、きっと分からないだろう。擦り合ったりもしないだろう。擦り合えるのは生きていることの確認である。これで確証がつかめる。おれは現に今生きているということが認識できる。精神の手だったらそれができぬ。出来なくともいいからである。生きているということに不安を感じたりしないからである。生き通しに生きているからだ。肉体はそうはいかぬ。肉体は物質だから常に己の存亡が気に掛かっている。だから、頻繁に己が生きているのかそうでないのかを判断していないと不安が昂じてしまう。精神はそれがない。いつも、だから、安定が得られている。かといって、物質界を塒(ねぐら)としている肉体が、それだけ負を背負っているというわけでもない。常に変化をしているということはそれはそれで大変有効なことなのである。プラスも多いのである。変化を確認すると言うことが己の向上進歩には欠かせないことだからである。

手がある。右手と左手を擦り合わせる。擦ることが出来る。俺は確かに生きているということがこれで納得される。精神世界に移住したらこうはいかなくなる。精神世界の精神が主軸となった「わたし」は、いったい何を以て己の生を確認するのだろうか。生き通しに生きているいのちというものには、いまの肉体生命が抱いているような不安というものはないのだろうか。常に一定と言うことにはどんな意味があるのだろう。いずれそこへ到着したらその疑念が氷解するに決まっているが。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひょいひょい弟が顔を出す

2016年12月01日 18時09分44秒 | Weblog

ひょいひょい弟が顔を出す。思い出の中でだが。ああそうだったなあ、あそこへはいっしょに旅をしたなあ、だとか、あそこでもモミジを見たなあ、だとか。そして急に淋しくなってしまう。もう一年生きた弟に会わない。死んでいるからだが、死なれてみると、あれこれ困ることが起きてくる。どうも妙だ。妙だなあとも思う。喧嘩をしたときもあったのに。いつでも仲良くしていたわけではないのに。一緒に酒も飲めない。いっしょに仏教の論議もできない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

暫く外に出た

2016年12月01日 17時42分01秒 | Weblog

暫く外で過ごした。作業着に着替えて出た。出るとあれもしなければならぬ、これも早い内にしておいた方がいい、などということに気がつく。ぼちぼちそれに取り掛かる。

たとえば、ブロッコリーの実が食べられる大きさになって収獲した残り株を引き抜く。するとそこの場がぽっかり空間になる。するとそこにまた何かを植えられるようになる。種から蒔いて育てていたキャベツ苗が育っているのでこれを移植する。

白木蓮の大きな葉っぱが枯れて落ちている。風に吹かれて畑まで飛んで来ている。せっかく発芽した豆の芽を蔽っている。これを退けて歩く。

黄金菜がいかにも密集している。移植鏝で根から丁寧に掘り上げる。これを空き地に植え替える。肥料をして回る。抜いた草が放置したままになっている。これを有機肥料造りの一角へ運んで行く。などなどなど。

そうしている内に日が暮れて来た。たったこれだけの雑用仕事なのだが、気分転換には十分だった。いずれ、しかし、してもしなくてもいいような雑事である。外は寒くなってきた。小松菜を間引きして終わり。一日が消費された。

振り返ってみると他愛ない。老後というのはそれだけ大切な時間なのである。残された時間は限りがある。そうであるのに、雑事に費やしている。そういう悔恨も残る。俺はこんなことしかできないのか、などとも思う。人様のなさっていることの100分の一の薄さのようにも思う。社会貢献度がまるでない。

などとも思うが、あまり自責しないでおく。せっかくの黄金の時間をこんな自責にも使いたくないからだ。

さあて、夕食だ。日本酒を熱燗で一合ほど晩酌をしよう。社会貢献度がまったくない男は晩酌には似合わないのだが、角を立てないで見過ごしてもらうことにする。お許しあれ、だ。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ごろんと草に:山頭火に親しむ

2016年12月01日 15時14分25秒 | Weblog

ごろりと草に ふんどしかわいた     種田山頭火

乞食(こつじき)をして旅に出ているといっても坊主にトランク・リュックは似合わないだろう。持ち物は頭陀袋一枚だろう。そこに着替えの褌が入っているかどうか。入っていなかったので水の流れるところで裸になって、それをすばやく洗ってすばやく干して、乾くまでは草に寝ていたのだきっと。夏の日射しは強いからひらひらの褌は見る見る間に乾いてしまった。風が渡る。風はまるはだかをも渡っていく。トンボだって蛙だって裸だ。かもうものか。石鹸も持ち歩いてはいなかったろうから、汚れは落ちなかったかもしれないが、どうせ一人だ。臭いと言って避けるものすらいまい。飄々たるところ、そこが雲水の雲水たるところだ。

捨てて捨てて行く。仏陀世尊がそうして歩かれたように、仏陀の道を歩む者はみな、わたしのものを出来るだけ持たないようにして行く。それもまた仏道修行者の修行である。いつ何処で死んでもいいようにして歩く山頭火の軽さ。こいうところはさぞ愉快を味わえたのではなかったか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニット帽かっこいいな

2016年12月01日 13時01分44秒 | Weblog

わ。そのニット帽かっこいいな。色合いもいい。気品もある。飾りも似合っている。貴族帽だ。asaさんのブログの写真を拝見。一晩で編み上げたのですね。ご近所からいただいた大根で作った料理もおいしそう。やわらか大根もおひたしホウレン草も食べてみたい。なんでもこなされるasaさんてどんな人なのだろう? 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「生きている今日」は「生きていない今日」で割り切れる

2016年12月01日 10時45分19秒 | Weblog

おはようございます。雨は降ってはいません。光が射しています。それほど冷え込んでいません。鵯の鳴く声が響いています。

わたしは今日を生きております。やがて生きられなくなる時が確実に迫ってきているのでありますから、今日を生きているということは黄金の輝きの類いであるに違いありません。では、このわたしが黄金の輝きの中に居てそれに応じた輝きを輝いているかどうか。みずからが発光していなとしても、それを受け取って反射して輝いて見せてもいいのでしょうが、わたしの現実はそうではありません。あれが駄目だ、これがつまらないなどと計算して渋い顔つきをしているきりであります。世の軋轢が身に滲みている苦労性なんですね、輝いていいときにでも輝けないのです。「生きている今日」の価値は「生きていない今日」にならないと発揮されないようです、わたしの場合は。それじゃ遅いのですが。

ではどうすればいいか。考えます。「生きている今日」を「生きていない今日」で割り算してみるといいのかも知れません。「生きていない今日」が分母。「生きている今日」が分子。それがちょうどイコール1になっていれば、わたしはもっと時を満ちていると思います。それができるのはどういうときか。やはり死を前にしているときだろうと思います。病が重くなってくればくるだけ、その割り算の答えが1に近づいて行くのかもしれません。幸福だけでは幸福にはなれないのですね、残念なことに。分母も分子も幸福では幸福が味わえない仕組みになっているのでしょうか。じゃ、進んで病を引き受けるか。でも、病が重篤になれば、わたしの場合はただ悲嘆にくれてしまうだけになりそうです。

空豆の種蒔きをしたのですが発芽して来ません。蒔く時機が遅きに失したのかもしれません。もう一度水遣りをしてみます。空豆の種は、みるからに硬く、そしてカラカラに乾いています。あれで湿気と気温をどうやって感じるのでしょう。感じないと発芽に漕ぎ着けません。わたしがそういうことを心配してやらないでも、ちゃんとしたシステムが出来ているはずです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする