一寝入りした。朝が来たかと思ったが、まだ宵の口だった。とほほほ。どうしよう。大西良慶清水寺管主の説法録がまだ読み終えていない。これがあった。
雨の音がしているが、大雨ではない。雨垂れが間遠い。こんな調子だと、濡れているのはさしずめ土の表面だけだろう。深さ30cmほどは染み通って欲しい。
半袖シャツ一枚きりではうすら寒い。夏布団を腹の上に掛ける。腕がまだ寒い。
一寝入りした。朝が来たかと思ったが、まだ宵の口だった。とほほほ。どうしよう。大西良慶清水寺管主の説法録がまだ読み終えていない。これがあった。
雨の音がしているが、大雨ではない。雨垂れが間遠い。こんな調子だと、濡れているのはさしずめ土の表面だけだろう。深さ30cmほどは染み通って欲しい。
半袖シャツ一枚きりではうすら寒い。夏布団を腹の上に掛ける。腕がまだ寒い。
5
ここからは、わたしの感想です。
わたしも老いた。とっぷりと老いた。頭には白髪すらも生えてはいない。若い頃にはふさふさとした髪が自慢だったのに。王維は61歳で亡くなっている。それからするとわたしは長生きの部類だ。しかし、年を重ねるごとに、恥を重ねているようなものだ。それを思うと、我が心も痛む。王維は、一切皆空の仏門に救いを求めようとしている。わたしの場合は、同じ「空門」でも、なんとまあ、空々しいの「空」でしかないのだが。
4
昔は顔も生き生きとして輝いていたというのに、いつのまにか白髪混じりじゃないか。少年の日の黒々とした髪は、あっという間にこの白髪になってしまっている。人の一生というのはかくも短いのに、心を傷ましめる事は山ほどもある。仏教は空を説いている、そうなのだ、何事も空なのだ、此処を解決とする。
(これはわたしの受け取りです。こうなのかなあ、くらいの当てずっぽう解釈です)
1
王維の詩を読む。今日は王維に助けを借りよう。さみしい。何があったというわけではないが、こころの中へも空っ風が吹き込んで来る。
「歎白髪」 王維
宿昔朱顔成暮歯 須臾白髪変垂髫 一生幾許傷心事 不向空門何處錆
2
「白髪を歎ず」 王維
宿昔(しゅくせき)の朱顔 暮歯(ぼし)を成す 須臾にして白髪 垂髫(すいちょう)を変ず 一生幾許(いくばく)ぞ 心を傷(いた)ましむる事のみ 空門(くうもん)に向かわずんば何れの處にか錆(け)さむ
3
朱顔=紅顔。 暮歯=暮年、老齢。須臾=たちまちのうちに。垂髫=童子の髪。空門=仏教の空という悟りへの道。錆=消す。
ショートショート わたしのエッセー 「柏餅」
雨の中、家屋の固定資産税を市役所に納めに行った帰り、お菓子屋さんに立ち寄った。そこで安物の柏餅を買って来た。柏の葉を底に敷いたトレイに、3個列んでいる。甘いのがほしい。血糖値が高い者は甘いのを食べてはいけないのに、ほしい。一個でいい。さみしさを、これで放擲したい。できるもんか。甘い餡が詰まっているとはいえ、柏餅を食べたところで、さみしさが、ひっくり返ったりするものか。帰宅した。夕暮れが迫る。雨は降り止まない。辺りが暗くなって行く。坐って窓辺に延べている足の、足先が冷たい。なんだ、どうしてなんだ。こんなことにも腹が立つ。こころの冷たさが足先にまで及んだのか。柏餅に、大袈裟にぱくりと歯形をつけてみた。むしゃむしゃ噛んでみた。
今日のわたしのエッセー 「雨の日の夕暮れ」
雨の日。することがない。日が落ちようとしている。すると、寂しさが泉を造って零れて来る。何処かへ行って、若干の慰安を得たい。しかし、「おお、よく来てくれた」「ああら、いらっしゃい。あなたを待ってたわ」などと迎え入れてくれそうな人はいない。いるはずもない。入ろうとしても門はかたく閉めてあるはずだ。
赤提灯の下がる一杯飲み屋さんにでも行けばよかろう。そこによろよろと入って行ったところで、しかし、かくばかり老醜のする男はもはや話し相手にもされまい。若い客が立て込んでいる。手酌で勝手に飲んで、熱燗一合で酔ってしまう。ものの30分も時間は掛からない。寂しい孤独者の哀れさが増すだけだろう。
何処へ行くにも二の足を踏んでしまう。歓待を期待出来る場所なんてからっきし見当たらないのだ。雨の日の夕暮れはぽつんとしているしかない。畑に隠元豆の花が列を成して咲き出した。可愛い。「お前は可愛いなあ」と声を掛ける。それくらいがご老体に許された精一杯のところか。
小雨の中で作業をしていたら着ている上着下着、ズボンまでがしっとり濡れてしまった。突風が吹き荒れたので、大きく成長したトマト苗が、風をまともに受けて幾つも倒されてしまったのだ。それを元に戻す作業。傘を差しながらではできなかった。新たに頑丈な支柱を立てて、ヒモで結び付けた。折角大きく育ったのに、途中からぽっきり折れてしまったのもあった。脇芽を出して復活するのを待つしかない。「へし折られたままではいるなよ。きっと再生を図るんだぞ!」と声を掛けた。作業を終わって、家の中に戻り、着替えて、濡れたタオルで上半身を拭き上げた。さっぱりした。野菜を育てていると、こうしたあれこれの雑用も増える。執着心のなさしめるところだ。
お昼ご飯をすませた。縁側の椅子に座っていただいた。老人はあまり多くは食べられない。食べないでよろしい。半分以上を残してしまった。夏蜜柑を剥いて、これも2房。
さあて、お昼寝が待っているぞ。
でも、外に出ても行きたい。雨は降り出していない。種から蒔いていた花苗が育っているので、これを花壇に移植してあげたい。
そうか、市役所から税金の納付書(固定資産税)が届いていたぞ。5月末日までが納付期限。払わなければならないのなら、払ってしまっておきたい。
4
わたしを是としているということは、いいことなのかもしれない。だが、それで傲慢になっているかもしれない。他者を疎んじてしまっているかもしれない。鼻持ちならない人間になっているかもしれない。
「是」はわたしの中にのみあるのではないだろう。そういう小ささではないだろう。もっと広い空間に出てみたら、もっと広い「是」というものがあるだろう。帰依とは、だから、狭いところから広いところへ出て行くこころなのかもしれない。観世音菩薩の仏智、慈悲慈愛にあやかろうとして、十句観音経を唱えてみる。
3
観世音菩薩に帰依致します。仏陀世尊に帰依致します。わたしは仏さまの世界と因を結んで生まれて来ています。だから深い深い縁を結んでいます。仏法僧の三宝に縁を結んでいます。仏さまのお悟りの常・楽・我・浄と縁を結んでいます。わたしは一日の始まりに観世音菩薩を念じます。一日の終わりにまた観世音菩薩を念じます。そういたしますと、念々が仏の心を通して湧き上がることになります。こうして湧き上がるわたしの念々が仏の心を離れないでいることになります。
(これはわたしの、わたし流の解釈、ヘンテコな受け取りです。間違った受け取りかも知れません。真義を覗きたい方は、パソコン検索をしてみてくださいね)