大相撲初場所をテレビ観戦しながら、山本健吉著「現代俳句」を読んでいます。このごろこればっかり読んでいます。おいしいものは大食しないでもお腹を満たします。
贔屓力士の湘南の海が負けてしまいました。今場所は1勝しかしていません。元気がありません。心配です。彼は礼儀正しい力士さんです。
もう15分ほどで5時になります。雪は止んでいます。静かです。薄暗くなっています。屋根に降り積もっていた雪が、目を瞑って眠りにつこうとしています。
大相撲初場所をテレビ観戦しながら、山本健吉著「現代俳句」を読んでいます。このごろこればっかり読んでいます。おいしいものは大食しないでもお腹を満たします。
贔屓力士の湘南の海が負けてしまいました。今場所は1勝しかしていません。元気がありません。心配です。彼は礼儀正しい力士さんです。
もう15分ほどで5時になります。雪は止んでいます。静かです。薄暗くなっています。屋根に降り積もっていた雪が、目を瞑って眠りにつこうとしています。
わたしもよくそのように思います。わたしにどれだけの歳月が残っているのか、と。
歳月を砂粒にしてずるずるずると崩れて行くばかりにさせているからだ。それをそうさせない工夫や方策はないのか。ありそうには見えない。
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寒苺われにいくばくの齢のこる
水原秋桜子
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苺を食べていてもふっとそれが入り込んで来て、食欲を搔き回してしまう。冬の日の苺を食べている。はち切れてまんまるとしている。おいしく頂く。おいしく頂いて我がいのちを肥やす。頂いている齢を大切にしなければと思う。
作者は医師である。医学博士である。それでもやはり老いを防げないのか。老にも病にも死にも、万人がそうするように、従って行くしかないのか。
魂が痩せて行くのを見ているのは辛いことだ。魂に食事をさせずに来たら、こうなることは分かっていたはず。それを怠ったからだ。己のみが太っても、太ったことにはならない。魂もわたしを構成している構成要素なのだから。
魂に食事をさせるために、俳句を読むことにする。
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天わたる日のあり雪解(ゆきげ)しきりなる
水原秋桜子
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屋根に積もっていた積雪が解け始めた。日が昇って来た。気温が上がって来た。ふんわりふくれていた雪の布団は、もう布団の形を失っている。水滴が落ちて来た。ととととととの雪解の音がする。水滴を辿って、見上げると、天空を大きく渡って行く太陽の日射しがあった。大きなものが動いて行くと、その後で次々に小さなものごとが動き出す。それはわたしをも動かして来る。わたしが抱いていたこだわりも、迷妄も誤解も、雪解をして行くようだ。しきりにしきりに。
「太陽が天空を渡って行く」その事実を知らなかったわけではないが、雪解を見ていると、すべて大いなるもののエネルギーによって、よい方向へよい方向へ動かされて行くことが領下されて来る。
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違う読み方があると思います。わたしは以上のような読み方をして、魂に読み聞かせをして上げました。魂は、さっき、すやすやと眠りに誘われて行きました。
人はどうそれを文学にして高めたのか。与えられている命、宇宙生命と自己生命を大事に大切に生きるにはどうすればいいか。それを問い質した。
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暮雪飛び風鳴りやがて春の月
水原秋桜子
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文字にしなくったって、わざわざ俳句にしなくたって、文学にしなくったって、月はそこにあるのである。それをそうと知って、なお、文字にする。言葉にする。俳句にする。するとどうだ。輝きが加わってそれが何倍にも大きくなって、春の空に浮かび上がって来たのである。しかも、人間のこころを吹き込まれて、人間に向かい合って。
雪は降り止まないかと思った。夕暮れになると風も鳴っていよいよ雪が乱舞し吹き荒れた。そして夜になった。夕食を食べ終えて外に出たら、春の月が出て、状況は一変していた。彼は、鉛筆の芯を嘗めて、やっとやっと穏やかになった春の月を、逃すものかと、575の文字の中に封じ込めた。
畑に出て、行き道を歩いて、降り積もった雪をどかして、小葱を摘んで来ました。包丁で、根元をざっくり切って。この小葱はやや太めに成長をする種類です。
お昼は麺。細かく刻んで、青い葱の色を浮かばせて食べました。刻むくらいなら、お爺さんにだってできますから。
スープまで飲んだら、汗が噴き出してきました。部屋暖房も効いています。雪の日というのに着ているものを次々に脱ぎ捨てて、最後は上半身裸になりました。
食べ終わって、また一枚一枚着て、着膨れました。
ぬるるもの冬田になかり雨きたる
水原秋桜子
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濡れて困るものがない。雨が降って来たが、それで慌てる人もない。慌てなければならぬということもない。刈り取った後の稲は疾うに蔵の中だ。蘖(ひこばえ)が伸びた冬の田が広がっているばかりで、雨の音すら静かだ。
。村里はいつもこの通り平穏でいられるようにしてあるようだ。
困るものがない、というのはいい。慌てなくていい。穏やかでいい。
では、己は? 己はどうだ? 問いの切っ先が己に向かって来る。
死ねば、この雪景色も見ることは出来ぬ。生きているうちだ。雪景色をことさら美しく描いて、見ている。
いや待て、死んでも、見ることが出来るかも知れぬ。見に来ることがあるかもしれぬ。驚いているかも知れぬ。
雪と雪の野原の美しさが、いまよりは100倍1000倍してとまどっているかもしれぬ。
だがそれは、あくまで仮想にすぎぬ。いまは現実に直接繋がっている。畑を白くふんわり積もらせる雪を見ている。
雪に、人間の心を宿らせて、見ている。そんなことができるのか? できそうな気もする。
また雪が戻って来た。ちらついている。日射しが消えた。風がないので、見る世界が静物画になっている。白一色の。雪が横様に縦様に降って、遊ぶ。
狐が村里に降りて来る足音を聞く。聞こうとするが、足音は雪に消えてしまう。
書くことに欠いている。書く題材が見つからぬ。視力がすっかり衰えてしまっているようだ。で、俳句全集をひもどいている。そこから探し物をしている。弓を引いて狩りをする。獲物を捕まえて、皮を剥ぐ。ナイフで切ってむしゃむしゃ喰う。それが僕のブログになる。
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来し方や馬酔木咲く野の日のひかり
水原秋桜子
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過去へ過去へと向かう。向かいたくなる日がある。野原は現在である。野原に馬酔木の花が花房をなして垂れている。手に取るとふわりとする。おれはおれの一生を過ごして来た。長い時間を過ごしてきた。あちらこちらへ行った。そうしていまは此処の野原に来ている。ここには馬酔木が咲いて春の日の光があふれている。そこから来し方へ目を遣る。西の方角にも東の方角へにも、南北にも、来し方がある。蝶になって、そこへふわりと飛んでみる。
おれは、案外、恵まれた人生を歩いてきたのかも知れぬ、という思いが過(よぎ)る。身があたたかくなるのを感じる。
誰もいぬそれでも雪が追い掛ける
釈 応帰
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わたしの落選の句だ、これは。
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人にいて欲しい。此処にいてほしい。人のあたたかさにあたたまっていたい。雪はそう思っている。
しかし、人はいない。野原があるだけで、人はいない。それでも雪は人を追い掛けるようにして降って、吹き荒れる。