声に出しひいふうみいと数ふるは何数へても愉し正月
伊藤一彦
西日本新聞正月元旦号 読者文芸選者正月作品集より
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秀歌の何処がいったい秀歌なのか、分からないでいる。無能だから、いつまでたっても分からない。
選者をされている歌人の作品だから、ぜったいぜったいもうこれは秀歌に決まっている。
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数年、投稿してきたが、わたしの投稿作品はこの選者から選ばれることはただの一度もなかった。屍るいるいだった。葉書代金63円x数年分がモッタイナイので、去年から止めにした。アキラメタ。
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12345ではなく日本にはひいふうみいよういむなの数え方がある。こっちが古風でみやびで、なんとなく奥ゆかしい。しかも声に出して数えてみるんだから、聞いている相手もそれにつられて奥ゆかしい雰囲気を味わえるだろう。一人で遊んでいてもいいか。お正月の雰囲気には、ひいふうみいようがぴったりするかもしれない。
ところで、何を数えたのだろう? 飲んだ酒瓶オチョウシの瓶の数か? 食べた雑煮の餅の数か? 挨拶に来た正月客の人の数か? 年賀状は、著名人の著名人だから、とても数え切れまい。正月を祝うために集まって来た親子孫子の頭数かも知れない。いやいや、何数えても愉しいんだから、当てずっぽうしない方がいいのかも。
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ともかく愉しかったのである。愉しいお正月を送れたのである。読者もこれで、愉しくなれそうだ。
ユーモアを効かせてあったところが、秀歌をいよいよ秀歌にしているところなのかもしれない。
人柄が滲み出ているところが、秀歌の味わいなんだろうね。
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屍が、にべもなく、選者の作品を鑑賞に及んでみました。「不届き至極!」と怒られるかもしれませんが。
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あっ、大好きな良寛様の作品にも、この「ひいふうみよいむな」が登場する作品があったなあ。良寛様を声に出して偲んでおられるのだろうか、この歌で。