<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

よろこびのあり方、幸福のあり方は、各人各様、自由であっていい。

2025年02月22日 20時22分51秒 | Weblog

美的センスは百人百様。そうしてある。

そうしてなければ、一極集中が起きてしまって、奪い合いが起こってしまう。

で、あなたが美しいと思うものが美しいんです、というようにしてある。

そしてそれでいい。

これで、痘痕(あばた)も靨(えくぼ)になる。割れ鍋に綴じ蓋で調和して安んじることができる。

百人百様の恋が成就する。わたしの妻が日本一、わたしの夫が世界一になれる。そういう仕組みにしてある。

美的センスが一つに限定されて一るなら、夫婦にはなれない。なっても後悔ばかりが残ってしまう。

芸術のセンスもしかりである。文学鑑賞のセンスもしかりである。それぞれの美的センスに任せられている。

だからまったく同じものを美の最高、芸術の最高、文学の最高としなくてすんでいるのである。

選者はしかしこれに等級をつける。Aさんの美的センスが1位です、Bさんのが2位です。あなたのは等外です、などとして,踏ん反り返るが、おかしな話だ。自分のセンスだけが唯一の美のセンスではないはずなのに。

美的センスや文学のセンス、芸術のセンスが一つ二つしかないとすれば、それはもう窮屈な話だ。狭っ苦しい話だ。価値観はそれぞれであっていい。自由であっていい。大空の広さであっていい。

Aさんが美しくないとした風景を、Bさんがこよなく愛して美しく見る。そういうことだってあっていい。Cさんがツマラナイとして唾棄したものでも、Dさんが最高の価値付けをしてくれることだって起こりえる。これでいいのだ。

百人百様。これでいい。限定はない。他者の一方的お仕着せに拘束されないでいい。自由であっていい。生き方も自由であっていい。よろこびのあり方、幸福のあり方も、自由であっていい。

 

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生きている今のうちに。

2025年02月22日 15時31分43秒 | Weblog

蓮如上人の「白骨の御文章」は明日とも知らず今宵かもしれずとしている。いついのちの白露が落ちてしまうか。分からない。だから、いつ終わってもいいようにしておかねばならない。

いまは生きている。死なないでいる。息がするかすかな音がしている。今のうち。いまのうち。何をするにも今のうち。何をしよう。その黄金の時間を保持している今をどうしよう?

ロマンスをしようか。美しい人を掻き抱こうか。バイクを唸らせて走り抜けようか。銀行強盗しようか。それもこれも魅力満点だが、さて、それほどの情熱も若さもない。嫌がられることはできない。

老いていても散歩はできる。杖があればできる。遠くまでは無理だ。老骨にむち打っても公民館までがやっとだ。それもよろけよろけ。とぼとぼとぼとぼ。無様に醜く醜く。

公民館の裏手に梅の木がある。昨日瞥見したら、赤くなって膨らんでいた。開花の準備が整っていた。梅見だったら一人でできる。生きている今ならできる。死んでは梅見はできない。

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午後3時からは、

2025年02月22日 14時51分58秒 | Weblog

午後3時からは老爺のお昼寝タイム。炬燵に足を延ばして座椅子に座ったまま。小半時ほど。ぬくぬくして。

外の小雪は止んでいる。祇園山の上に小さな白い雲がぽっかり。

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うふふ、うふふ、うふふ、だ。

2025年02月22日 14時34分58秒 | Weblog

山下孤烟遠村 さんげこえんえんそん

天辺独樹高原 てんぺんどくじゅこうげん

一瓢顔回陋巷 いっぴょうがんかいろうこう

五柳先生対門 ごりゅうせんせいたいもん

王維作「田園楽」7首より

山裾に一筋の煙が上がってその先の村が遠くなり、天上に伸びた一本の高い木がその先の高原を見下ろしている。たった一瓢の水を飲んで満足し得た顔回が陋巷に暮らして安んじているし、五柳先生つまり陶淵明が門の向こうに悠々自適に暮らしている。田園の楽しみは尽きぬ。

うふふ、うふふ、うふふ、だ。 

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悪業罪業が深い。

2025年02月22日 14時22分59秒 | Weblog

蛇さへも殺せぬヨワが夢の中恐ろしいかな10人殺す

薬王華蔵

恐ろしい恐ろしい。夢の中とは言え、弱い男のヨワが一晩で十人も殺してしまった。悪業罪業が深い。穴の中の暗い本心が覗いているのか。蛇も虫も殺せぬ小心非力の男なのに。

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イヤダイヤダなんか言わない。

2025年02月22日 14時12分43秒 | Weblog

大根さんが大根をしていてくれる。白菜さんが白菜をしていてくれる。寒い2月の雪降る日も。

イヤダイヤダなんか言わない。

畑にいて、嬉しがって嬉しがって大根さんをしていてくれる。畑にいて、嬉しがって嬉しがって白菜さんをしていてくれる。

雪の日に畑になんかいたくないぞ、なんて言わない。動けないのはイヤだなどとも言わない。もっと大きくなりたい、などとも言わない。請求のもっともっと、がない。

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すべてのいのちが等しく大きな安心に至り着く。

2025年02月22日 13時44分02秒 | Weblog

諸々の精霊は、(仏)宝の蓮華に座して等正覚を成じたまふ。

日蓮宗経典「回向文」より

精霊は狭義では死者の霊魂の意だが、もっと拡大解釈をしていいのではないか。三世を生き通す山川草木悉皆成仏のイノチ、と。

「宝」は「仏法の宝」である。「蓮華」は「白い蓮の華」「仏さまの台座」。「等正覚」は「仏の悟り」「阿耨多羅三藐三菩提」

「等正覚を成じている」とは「成仏している」ということである。

人はさまざまに経巡って経巡って最終段階に到達して成仏する。これが仏教の教えるところである。成仏して安んじている。だから、心配要らない、と。

池の蓮の華の上に静かに座しているばかりではなく、そこから立ち上がって、さまざまな利他救済の活動に専念して、輝きを増して行く。

そういう目標地点が見えて来れば、安堵ができるというものだ。仏教は「安堵の教え」だ。安心して生きて安心して死んでいい、という教えだ。有り難い有り難い。

 

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生きても死んでもこの構図は不変だ。

2025年02月22日 13時17分59秒 | Weblog

こころは三千の法界なり。こころに、仏の三千の法界が顕現する。

「一念三千」の教えである。一念すれば三千の法界がこころに満ちる。満ちてこれるようにしてある。こころの湖に仏陀の教えが流れ込んで来る。宇宙の曼荼羅が流れ込んで来る。

修行者はこれを観想した。自己の内に仏陀を見出した。宇宙の曼荼羅を見出した。こころの耳に仏陀の声を聞く。三千大千世界に満ち満ちる仏陀の声を聞く。

思いようでどうにでもなる人間のこころ。善にも走る悪にも走る。悲しみにも沈む苦しみにも捉まる。しかし、よろこびにも湧き立つ。

わたしと宇宙が繋がっている。わたしと仏陀が繋がっている。臍の緒で繋がっている。心臓のベルトで繋がっている。一秒一秒の間も、呼吸で繋がっている。

生きても死んでもこの構図は不変だ。

わたしのこころに仏陀がいて下さっている。わたしを導いておられる。わたしを守っておられる。それが観想できれば、涙涙涙だろう。そうなればもう、一々の不平を鳴らす気など起こさなくて済むようになれるだろう。

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カンガルーやコアラには育児嚢がある。

2025年02月22日 12時53分47秒 | Weblog

エプロンは育児嚢なり 夕食を作るママから幼児(おさなご)覗く

薬王華蔵

カンガルーやコアラにはお腹の前面にほっかり開いた育児嚢がある。ここに赤ん坊を抱いて育てる。ママのお腹にもそれがある。エプロンの育児嚢である。エプロンをうまくまるめて入り込む。夕食の料理が始まってもやはりママから離れなれない。ママはキッチンの丸椅子に座ってジャガ芋を皮剥いている。丸椅子に垂れたエプロンの、育児嚢に入り込む。そこからときどき人間コアラが顔を覗かせる。

これももちろん落選だった。選者にはこれは文学とは受け取られなかったようだ。書いた本人も文学性があったのかどうか、分かっていない。

地球も大きく見れば育児嚢である。ここにすっぽり入り込んで人間が育つ。神様の子供の人間が育つ。育児嚢は外敵を排除してくれる役割をする。

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創作は人生創造だから楽しいのです。

2025年02月22日 11時06分50秒 | Weblog

わわわわわっ、雪だあっ! 窓の外を粉雪が舞っています。風がビュンビュン吹き荒れています。

ぽっちゃりの睫(まつげ)を閉じるお爺さん客は来ぬなり古本屋へは

薬王華蔵

わたしの落選の短歌。落選落選ばっかりです。何週間も何ヶ月も。

町中の煤けた古本屋の店の奥。店番をする長い睫が垂れ下がっているぽっちゃり顔のお爺さんが、こっくりこっくりお昼寝をしています。客の訪れはありません。外は吹雪いています。

落選落選落選するに決まっているのに、それでも投稿を続けています。このお爺さんはケナゲです。いまにいい作品が創作できるでしょう。創作は人生創造だから楽しいのです。

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