日経トレンディ 2023 上半期 ヒット大賞-クルマ
「プリウス-TOYOTA」
新型プリウスは、デザイン一新した。
新車供給が各社苦労している中、新型プリウスは3ケ月弱で2万台登録。
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第86回 2015年3月24日 「色で勝負!華やぎの器~石川 九谷焼~」リサーチャー: 安田美沙子
番組内容
けんらん豪華な絵付けを特長とする、石川県の九谷焼。高級品のイメージがあるが、近年はスタイリッシュでカジュアルな器が続々と登場し、人気を博している。料理を盛りつけると思わず写真を撮りたくなる“額縁”のようなカラフル器。飲み物を注ぐと、犬がお風呂に入っているかのように見える、遊び心あふれる杯。そして、極細の線を操る“赤絵細描”の超絶技巧とは?使ってみたくなる、現代の九谷焼の魅力を安田美沙子さんが探る。
*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201503241930001301000 より
詳細不明につき、勝手に調べてみました。
「九谷焼」
九谷焼(くたにやき)は、石川県南部の金沢市、小松市、加賀市、能美市で生産される色絵の磁器。五彩手(通称「九谷五彩」)という色鮮やかな上絵付けが特徴である。
歴史
古九谷
江戸時代、加賀藩支藩である大聖寺藩領の九谷村(現在の石川県加賀市)で良質の陶石が発見されたのを機に、藩士の後藤才次郎を有田へ技能の習得に赴かせ、帰藩後の明暦初期(1655年頃)、藩の殖産政策として始められたとされる。しかし、約半世紀後の元禄末期(1700年代初頭)に突然廃窯となる。廃窯の理由は諸説あり、判然としていない。この頃に作られたものを「古九谷(こくたに)」と呼ぶ。
窯跡は加賀市山中温泉九谷町に、「1号窯」「2号窯」と呼ばれる2つが残る。しかし、研究が進むにつれて産地は有田であった事が判明しつつあり、現在では「古九谷様式」あるいは「初期色絵」とも称される。いまだに謎が多いとして九谷焼の本場ではこの説を認めない人が多い。
再興期
廃窯から約1世紀後の文化4年(1807年)、加賀藩が京都から青木木米を招き、金沢の春日山(現在の金沢市山の上町)に春日山窯を開かせたのを皮切りに、数々の窯が加賀地方一帯に立った。これらの窯の製品を「再興九谷」と呼ぶ。同じ頃、能美郡の花坂山(現在の小松市八幡)で、新たな陶石が発見され、今日までの主要な採石場となった。これらの隆盛を受け、それまで陶磁器を他国から買い入れていた加賀藩では、文政2年(1819年)に磁器を、翌年に陶器をそれぞれ移入禁止にした。
再興期の主な窯元 括弧内は開窯時期
春日山窯(文化4年(1807年))
若杉窯(文化8年(1811年))
小野窯(文政2年(1819年))
民山窯(文政5年(1822年))
吉田屋窯(文政7年(1824年))
木崎窯(天保2年(1831年))
宮本屋窯(天保3年(1832年))
蓮代寺窯(弘化4年(1847年))
松山窯(嘉永元年(1848年))
春日山窯は京風、若杉窯は有田風、吉田屋窯は古九谷風を得意とした。春日山窯開窯以前の天明年間に、ほぼ同じ場所で越中国城端の焼物師、殿村屋和助という人物が窯を開いていた記録があるが、どのような焼物であったのかは判っていない。
中興の祖
九谷焼中興の祖と呼ばれる九谷庄三(くたに しょうざ、文化13年(1816年) - 明治16年(1883年))は、寺井村(現能美市寺井町)の農家に生まれた。17歳の時に小野窯に陶匠として招聘される。後に窯業の指導に諸国から招かれるが、能登の火打谷(現志賀町)で、能登呉須と呼ばれる顔料を発見。後の九谷焼に多大な影響を与える。26歳で故郷に戻り寺井窯を開いた。西洋から入った顔料を早い時期から取り入れ 彩色金欄手を確立し、庄三風と呼ばれる画風は、後に西洋に輸出される九谷焼の大半に取り入れられることになる。
新九谷
明治に入り、九谷焼は主要な輸出品となり、ジャポニスムが流行していた欧米で人気を集めた。1873年のウィーン万国博覧会などの博覧会に出品されると同時に、西洋の技法も入り込んだ。1872年頃から、型押しの技術が九谷焼にも取り入れられ、1892年頃から獅子をはじめとする置物の製作が盛んとなり、大正時代になると型が石膏で作られるようになり、量産化が進んだ。
また、明治維新による失業士族の授産施設として、1872年(明治5年)に誕生した金沢区方開拓所製陶部は、砂子吉平、初代諏訪蘇山等の参加を得て成果を上げ、1876年(明治9年)には、石川県勧業場と名を改めた。1887年(明治20年)金沢工業学校(現石川県立工業高等学校)が開校し、次代の陶芸家が育成されるようになった。
その他
九谷の地名は古くからの山中温泉を1番目、大聖寺川上流へ旧西谷村の栢野大杉がある左岸村落を2番目とし9番目の村落を九谷とした、また『加州名跡誌』に拠れば「山広く方五里にわたり谷深くして九百九十九谷あり、略して九谷という」とあり、その地元伝承や谷が多く最高数字の九とした説がある。
2005年(平成17年)8月完成(2006年(平成18年)3月竣工)の大聖寺川上流の九谷ダムによって出来た湖を一般公募から「五彩湖(ごさいのうみ)」と名付けたが、古九谷の地元であり、その特徴である五彩色にちなむ。
*Wikipedia より
*https://item.rakuten.co.jp/garandou/kamid-052/ より
九谷焼を代表する画法「赤絵細描」
*https://kutani-iwataya.com/?tid=2&mode=f12 より
「和みリゾット」
粒が大きい、 国産リゾット用品種
おいしくて和むこと、日本で作られたお米 (=和)であることから命名されました。
*https://www.niigata-mai.jp/rice/nagomirizotto.html より
*農研機構HP より
「海豚 いるか」
イルカ(海豚、鯆)は、哺乳類偶蹄目(鯨偶蹄目)に属する鯨類の内、小型の種の総称である。なお、イルカとクジラは分類学的には明確に区別されない。
*Wikipedia より
イルカの語源・由来
イルカの語源は、以下の通り諸説ある。
1.イルカ漁をすると大量に血が流れ出て、辺り一面が血の臭いになることから、「チノカ(血臭)」が転じたとする説。
2.「行く」を意味する「ユルキ」が転じたとする説。
3.イルカは海面に頭を出し入れすることから、一浮一没の魚の意味で「イリウク(入浮)」が転じたとする説。
4.よく入り江に入ってくるので、「イルエ(入江)」が転じたとする説。
5.「イルカ」の「イル」は「イヲ(魚)」で、「カ」は食用獣をいう語とする説。
イルカを「ユリカ」と呼ぶ地方もあり、この方言が「イルカ」の訛りでなければ2の説が有力である。
最も有力な説は5で、古く「ウロコ」は「イロコ」と呼ばれており、「イル」や「イロ」「イヲ」は魚を表す言葉に用いられる。
また、食べ物の神は「ウカノミタマ(食稲塊)」と呼ばれ、「ウカ」には「食」の意味があり、「稲」が陸上の食「ウカ」とすれば、水中の「ウカ」が「イルウカ」や「イロウカ」と呼ばれ、転じて「イルカ」になったことは十分に考えられる。
イルカの漢字「海豚」は中国語で、海に棲む豚に似た生き物の意味である。
中国では「海豚」の他に、「海猪」や「江豚」とも書かれ、日本でも『和名抄』には「江豚 伊流可」とある(『古事記』では「入鹿魚」)。
*https://gogen-yurai.jp/iruka/ より
「市松」
市松模様(チェック)に仕上げる料理を市松と言う。
由来は歌舞伎役者「佐野川市松」の袴模様から。
色違いの二色を互い違いに組み碁盤目にする。また、ニ~三色を使い菱型や亀甲にする特殊な料理もある。
*https://temaeitamae.jp/top/t2/kj/1_B/020.html より
「三十振袖四十島田」
《30歳になっても振袖を着たり、40歳になっても島田を結ったりする意から》年配の女性が年齢不相応な若い服装や化粧をすること。特に年増 (としま) の芸者などの若づくりをあざけっていうのに用いる。四十島田。四十振袖五十島田。
「三十六計逃げるに如かず」
形勢が不利になったときは、あれこれ思案するよりも、逃げてしまうのがいちばんよい。転じて、めんどうなことが起こったときには、逃げるのが得策であるということ。
「三十六計」-中国古代の兵法にある36種の計略。兵法上のいろいろなはかりごとやかけひき。
「三寸の見直し}
《物の長さも測りようによっては3寸の誤差がある意から》物事は、詳しく点検すれば多少の欠点は見つかるということ。また、多少の欠点は見慣れれば気にならなくなるということ。
「三寸俎板を見抜く」
厚さ3寸のまな板の裏まで見通す。物事を見抜く力の鋭いことのたとえ。
「三千の寵愛一身にあり」
《白居易「長恨歌」で、楊貴妃について言われたところから》宮中にいる多数の女性の中で、ただ一人だけが天子の寵愛を受けていること。
*goo辞書 より
「イケダワイナリー(株)/イケダワイナリー」
イケダワイナリーは、1995年にワインの本場勝沼の地に誕生しました。良質なぶどうから高品質のワインを造りを目指す家族経営のワイン醸造場です。手抜きをしない丁寧なワイン造りを心がけております。「ワインをつうじて造り手と飲み手の心が通い合う」 それが私たちイケダワイナリーの理想です。
イケダワイナリー(株)/イケダワイナリー 山梨県甲州市勝沼町下岩崎1943
商品リスト
樽熟甲州
ステンレスタンクで発酵し、古樽の中でゆっくり熟成しました。
柑橘系の香りと、爽やかな果実味が味わえます。
繊細な和食にもよく合います。
*https://www.winery.or.jp/winery-map/2673/ より
「ぶどうあずき」
広島県福山市鞆の浦の、鞆港から船で約25分,備後灘に浮かぶ小さな島,走島に昔から栽培されている珍しい小豆があるそうです。 地元の人は「ぶどうあずき」と呼んでいるそうです。
そのような豆を、タネ交換会で広島の方からいただき、育てた豆です。
「ぶどうあずき」と言う呼び名は、高級葡萄のマスカット・オブ・アレキサンドリアと同じような色(マスカットグリーン)をしているからだそうです。 小粒の小豆で、1000粒の重さは37gくらい。 普通の小豆が100~140gなのでかなりの小粒です。
味は普通あずきに比べると、少し落ちるとのことです。 じもとの人は御粥に入れて食べているようです。 豆ごはんでもいいんじゃない。
ということは、瀬戸内で古くから栽培されている地豆の小豆です。
*https://a409s.cart.fc2.com/ca15/36/ より
「ランドセル工房生田 KOBA」
職人の手作業による美しいランドセル
成長の節目で出会う大切な思い出。
子どもが持つものすべてが可愛らしくある必要はないのかもしれない。
株式会社生田のランドセル「KOBA」にはどこか大人っぽさが感じられる。その秘密はフタ部分に施された「コバ塗り」という革の裁断面を処理する技法。多くのランドセルは、裁断面に革を巻きつける「ヘリ巻き」という技法が用いられ、縁の部分が丸みを帯びる形状となる。それに対して本製品は、裁断面にニスを塗り重ねて処理をする「コバ塗り」を採用しており、縁の部分に丸みがつかず、美しいシルエットが生まれる。コバ塗りでは、裁断面を均一にするために下塗り剤が使用されることが多いが、それにより革とニスの接着が悪く、はがれやすくなってしまう。そのため同社では下塗り剤を使用しない独自の方法で、強度を高く仕上げている。個体差のある本革に均等にニスを塗るこの作業には、手作業による高い技術が求められるが、創業以来自社生産を貫く同社の職人技があるからこそ実現した。
また、同社はお客様とのつながりを大切に考え、最初のミシン掛けから「誰のランドセル」か、持ち主の顔を思い浮かべながら、ひと針ひと針300工程以上を重ねてゆく。ランドセルの一部を自身の手で制作できるワークショップなどを行うのもそのためだ。 熟練の職人の確かな技術と、成長の節目を彩る製品とのかけがえのない出会い。「KOBA」を背負う人は、その両方を身体に感じられるのだ。
高級紳士鞄や財布などに用いられる「コバ塗り」を、ランドセルに採用。熟練の職人が手間を惜しまず、ニス塗りやサンドペーパーでの磨きを何度も繰り返すことで生まれる光沢は、大量生産ではまねできない、手仕事ならではの美しさ。
内装や金具、革の種類やステッチなど11項目を自分好みにセレクトすることができる。組み合わせによって見た目の印象が大きく変わるため、ランドセルにそれぞれの個性を与えることが可能。自社工房での一貫生産のため細かなオーダーにも対応できる。
株式会社生田 大阪市生野区田島6-2-16
*https://osaka-sei.m-osaka.com/product/2102/ より