第90回 2015年5月5日 「木に柔らかく美しい曲線を~山形 天童の木製品~」リサーチャー: 加藤夏希
番組内容
山形県天童市で作られる木の椅子は、美しいデザインで世界的に評価されるイッピンだ。薄い板を何枚も重ねて曲げる「成形合板」という独特の技法によるものだ。柳宗理らトップデザイナーと開発してきたロングセラー・名品の数々をたっぷりと紹介!また、日本一の生産量を誇る「将棋の駒」。その中でも最高級品はどのように作られるのか?そして、幻の木「黒柿」を使う工芸品とは?天童の木製品の魅力を加藤夏希がリサーチする。
*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201505051930001301000 より
1.木工(天童木工)
将棋のコマ作りなどで有名な木工の町、山形県天童市に本社を構える「天童木工」は世界中で愛されている家具メーカーです。
北欧で生まれた「成形合板」という技術を日本で最初に取り入れ、数々の製品を世界へ発信してきました。
天童では、戦時中に軍需品を作るために組合が結成されましたが、終戦後は、大工や建具の職人が集まり、天童木工家具建具工業組合が結成され、住まいの中で必要な卓袱台などを作って百貨店に卸すようになりました。
これが後の「天童木工」になりました。
「天童木工」が、日本で初めて「成形合板」の技術を取り入れたのがそれから2年後の昭和22(1947)年です。
北欧や米国で確立されつつあった「成形合板」の技術がきっとこれから先の時代を作るだろうと見越しためです。
当初は接着剤の質が悪く一日に一枚の板しか出来なかったため、「高周波発振装置」を導入。
電気の力で型を熱し接着剤を固める当時の最新鋭の機械でした。
そうすると、剣持勇や柳宗理といった工業デザイナーなどから、家具の相談が舞い込むようになりました。
その後も数々のデザイナーと組み、ロングセラーを次々と生み出していきました。
特に、仏パリの「ルーブル美術館」や米NY近代美術館(MoMA)のパーマネントコレクションに選ばれた「バタフライスツール」は天童木工を語る上でかかせないものとなりました。
成形合板
「成形合板(プライウッド)」とは、1㎜程に薄くスライスした木材(単板)を一枚ずつ重ねて接着し、熱を加えながら型にはめて、様々な形状に造形する技術です。
その製品は軽く丈夫で、複雑な曲線を可能にします。
主に椅子に用いられる技術で、歪みや反りが出にくい製造方法です。
昭和31(1956)年に発売された柳宗理デザインの「バタフライスツール」は、今も人気のロングセラーの椅子です。
製造本部長の西塚直臣(にしづか なおおみ)さんにショールームを案内していただきました。
一枚の板を曲げて作られた椅子などが展示されています。
木をに曲げて作られている「成形合板」の椅子は400種類以上もあるそうです。
「バタフライスツール」も展示されていました。
工場で、「成形合板」の製作現場を拝見させていただきました。
材料はブナを1㎜の厚さに削った「単板」です。
家具職人 伊藤岳史さんによると、「単板」は一枚だと、木目の筋に沿って簡単に割れます。
そこで木目が縦横交互になるよう重ねていきます。
それを特殊な接着剤を使って、椅子の形をした三次元構造の型にプレスしながら接着し、木を曲げていきます。
更に、石澤祐一さん、高橋久夫さん、加藤誠さんら熟練の職人によって仕上げが行われ、完成しました。
バタフライスツール(工業デザイナー・柳宗理さん)
「バタフライスツール」は、工業デザイナーの柳宗理のデザインを昭和31(1956)年に完成したスツールです。
2本足のロッキングチェア
2本足のロッキングチェアは昭和41(1966)年に開発されました。
このロッキングチェアは「コマ入れ成形」と呼ばれる技法を駆使して作られています。
「コマ入れ成形」とは、1㎜程度の単板に接着剤を塗布して重ね、型に入れて曲げる「成形合板」に、
木片を間に挟み込んでひとつの形状に成形するもので、分岐形状を一体で作る事により接合部がなくなるため、スリムな形状であっても高い強度が実現します。
「RPW Products」(ロールプレスウッド製品)
平成26(2014)年に発表したのは国産の針葉樹を使ったシリーズです。
戦後復興期、成長の早いスギやヒノキ、カラマツなどの軟質針葉樹の植林が日本各地で大規模に行われましたが、その後、輸入材の増加や林業の低迷などにより、手つかずのまま放置されています。
天童木工では、独自技術「Roll Press Wood」で、この問題に取り組み、丈夫で美しい家具として再び地域に還元する
「Roll Press Wood」という技術を完成させ、家具のシリーズを生み出しました。
美しい木目を持つ杉の木製品が全国から注目を集めています。
天童木工 山形県天童市乱川1-3-10
2.将棋の駒
天童は「将棋駒」の一大産地で、最大生産量を誇ります。
将棋駒の製造が天童で始まったのは、江戸時代末期まで遡ります。
天童織田藩が、家臣に将棋駒製作の内職を積極的に奨励したのがきっかけです。
天童織田藩は、織田信長の次男、信雄のぶかつ(幼名・茶筅)を祖先に持つ藩です。
天正10年(1582年)「本能寺の乱」後、信雄の四男・信良の系統が、上野小幡藩(群馬県甘楽町)から、明和事件に伴い出羽高畠藩(山形県高畠町)に転封され,更に陣屋の移転に伴って、天保2(1831)年に出羽天童藩主となり、天童織田藩が成立しました。
凶作が続いたことにより藩の財政が困窮し、救済策として、家臣に「将棋駒」製作の内職を積極的に奨励しました。
「将棋は戦闘を練る競技であるから、 武士の面目を傷つける内職ではない」というのがその理由でした。
天童織田藩時代は、「木地造り」と「書き」の分業形態で将棋駒を製造していました。
「書駒」(かきごま)
漆で駒木地に文字を直接書いたもので、書体は楷書と草書があります。
天童の伝統は草書体の書き駒です。
明治時代末期から機械化による大量生産が進み、昭和初期には安価で良質な天童将棋駒の供給が可能となりました。
昭和40年代に入ると、生産の主体は「彫駒」(ほりごま)に移り、「彫埋駒」(ほりうめごま)や「盛上駒」(もりあげごま)の技術が研究され、製品化されました。
彫埋駒(ほりうめごま)
彫り上がった駒に下地漆を入れた後、数段階に分けて水を使わずに砥ぎ出した後に、瀬戸うずくりやトクサ等を使って平滑に仕上げたもの。
盛上駒(もりあげごま)
彫埋め砥ぎ出した駒に、蒔絵筆を使って文字を漆で浮き出させ、乾燥させた後、入念に磨いたもので、技術的にも難しく、最高級の将棋駒です。
プロ棋士のタイトル戦で使われてます。
天童では、駒木地を作る「木地師」、駒木地に字を書く「書き師」、駒木地に字を彫る「彫り師」と分業制により駒づくりが行われています。
「木地師」は、丸太材より「鋸」や独特の「駒切りナタ」を使用して、1枚1枚手作業で木地作りを行います。
「書き師」は、下書きなしに駒木地に直接「将棋文字」を漆で書いていきます。
「彫り師」は、将棋独特の文字を印刀一本で彫り上げます。
彫った所に漆を入れる作業は、単純ですが経験が必要な作業です。
桜井和男(さくらい かずお)さん、亮(りょう)さんは、親子で日本一の将棋の駒を作る駒師です。
「掬水」(きくすい)の雅号で将棋駒の最高級品「盛上駒」(もりあげごま)を作るお父様の和男さんは、天童の将棋駒のレベルと地位を向上した立役者の一人です。
令和元(2019)年、将棋業界で初の文化庁長官表彰を受章しています。
今や「将棋駒と言えば『天童』」と連想する方が多いと思いますが、プロの対局に使用されるようになったのは、実は昭和55(1980)年の第29期王将戦からと比較的歴史が浅いのです。
それまではプロの公式戦に使われるような高級な将棋駒は東京や大阪で作られているものでした。
「天童将棋駒」は決して高級ブランドではなかったのです。
和男さん達は高級じゃないという認識を覆したいと考え、質の良い手彫りの将棋駒を作り続けた結果、日本で唯一残っている手彫りの高級将棋駒を作る産地として有名になったそうです。
また和男さんは分業制をやめ、現在、天童市内で唯一、木地選びから全てする自分で行っています。
息子さんの桜井 亮(淘水とうすい)さんは、お父さんの指導の下、駒に文字を彫る練習から始め、平成16(2008)年には初めて公式タイトル戦で使用されるまでになりました。
平成28(2016)年には、プロ将棋界の頂点と言われる「名人戦」で、桜井さんの駒が使われただけでなく、平成29(2017)年公開された映画『3月のライオン』の最後の対局の場面で、亮さんが作った将棋駒が使われ、注目を集めました。
亮さんに、将棋の名人戦でも使われる「盛上駒」(もりあげごま)の製作工程を見せていただきました。
桜井さん親子は木目が緻密で固い伊豆諸島・御蔵島産の「ツゲ」を使用しています。
原木を切り出し、板材に製材してもらった材を現地から仕入れ、4~5年乾燥させた後、自宅の作業場で木地を作っていきます。
駒彫り台の上に「盛上駒」の材料ツゲを固定し、印刀で文字を一つひとつ彫っていきます。
台や印刀の持ち手など、工程で使う道具も自作することが多いそうです。
彫った文字を石の粉に漆を混ぜた「錆漆」を塗り、固まったら盛り上げ作業に入ります。
丁寧に載せて、一文字に15分をかけ、蒔絵筆で漆を丁寧に重ねて均等の高さにして、文字を浮き出たせていきます。
文字に立体感を出していくには技術を要するため、全国的に盛上師の人数はごくわずかです。
「天童将棋駒」は、幕末から作り続けられていますが、その当時から世襲制という考えはなかったと言われています。
世襲制が珍しい将棋駒の世界において和男さんと亮さんに、現在は亮さんの長女の絵美さんも「小楠」の雅号で彫駒を手掛ける駒師になり、親子3人で駒づくりに向き合っています。
3.黒柿工芸(「吉田木工芸」吉田宏介さん、吉田宏信さん親子)
天童市内にある「吉田木工芸」では、欅、杉、桐などから木工品全般を作っていますが、特に「黒柿」を使用した「黒柿工芸品」を中心に製作しています。
三代目のお父様の吉田宏介(よしだ こうすけ)さんは、「黒柿工芸」で平成25(2013)年に「現代の名工:厚生労働省(卓越技能章受章)」を受賞しています。
「黒柿」は通称であり、「黒柿」という樹の科目属性がある訳ではありません。
樹の種類としては「柿の木」で、「黒柿」は樹齢150年以上の柿の木が突然変異したものです。
普通「柿の木」は、幹の内部「心材」は乳白色から淡黄色をしています。
ところが樹齢150年を超える「柿」の老木には、心材に黒緑色あるいは黒褐色の模様が偶然現れることがあり、これを「黒柿」と呼びます。
「黒柿」が出る確率は1万本に1本とも言われ、非常に貴重で高価な存在です。
また、たとえ同じ土地や条件で育っても全てが黒柿になる訳ではなく、全く違う杢目や色になったりします。
古来より、黒柿に現れた雅味溢れる模様が珍重され、正倉院御物の中にも多く残っています。
山形県を中心とする東北の一部地域に残る「大柿」や「蓑柿」といった「昔柿」が「黒柿」の材になります。
食用の柿の木は多くありますが、その多くは老木になる前に伐採されてしまいます。
そのため「黒柿」は貴重な材料の一つですが、山形県村山地方には比較的残っているそうです。
吉田さんは、「黒柿」の情報があると自ら現場に赴いて確認し、「黒柿」であれば値段交渉の末購入して伐採して、持ち帰ります。
そして、狂いをなくすために何年も乾燥させます。
お父様の宏介さんは、二代目が残していた「黒柿」で将棋の駒箱を黒柿で作ってみたのが「黒柿工芸」を始めたきっかけでした。
それまで黒柿の駒箱がなかったため、「珍しい、これは良い」と高い評価を得、それ以降、自然に「黒柿工芸品」が増えていきました。
4代目の吉田宏信(よしだ ひろのぶ)さんが「黒柿工芸」の仕事を始めたのは20歳の時です。
平成25(2017)年には宮内庁買上げとなるなど、親子二人ともにご活躍され、全国で「吉田宏介・宏信 父子木芸展」も行われています。
また東北芸術工科大学で、「指物」(さしもの)の指導も行っています。
宏信さんは、工芸品だけでなく、日用品なども手掛けることで、身近に感じてもらえる工夫をしています。
吉田木工芸 山形県天童市柏木町2-13-12
*https://omotedana.hatenablog.com/entry/Ippin/Yamagata-Tendo/wood より