「読谷山花織」
Description / 特徴・産地
読谷山花織とは?
読谷山花織(よみたんざんはなおり)は沖縄県中頭郡読谷村で作られている織物です。
読谷山花織の特徴は、織り地に先染めされた糸で花のような幾何学模様の文様を織り込んでいることです。素材は絹糸もしくは綿糸を用い、染める素材は琉球藍や福木(ふくぎ)、すおうなどを用いて染められます。
伝統的な読谷山花織は琉球藍で染められた紺地に赤や黄、白色などで花模様を表します。花模様は基本的な単位の図柄が決まっていて、それぞれに意味があります。「ジンバナ(銭花)」と呼ばれる銭に似せた花模様は裕福になるように、「オージバナ(扇花)」は末広がりの扇の模様が子孫繁栄を表しています。また「カジマヤーバナ(風車花)」は沖縄の風習にならって長寿を祝う風車の形をしています。こうした基本模様に縞や格子を組み合わせ、さらに複雑な模様を生み出した織物は、素朴ながら立体感のある花柄が華やかな雰囲気の織物となっています。
大変手間のかかる織物なので、琉球王朝時代には王族以外と読谷村以外の庶民は着ることが許されない貴重な織物でした。
History / 歴史
読谷山花織 - 歴史
読谷村花織がいつごろから織られていたかははっきりわかっていませんが、15世紀の頃から織られていたとも言われています。当時琉球王朝は中国や東南アジアと盛んに交易を行っており、琉球には様々な外国の品や技術が伝えられました。
読谷山花織もその頃南アジアから伝えられたと考えられており、華やかな意匠の為琉球王府の御用達に指定されてからは、更に織りの技術も高められていきました。細かい花模様を織り込む為には大変な手間暇がかかる為、王族、貴族以外は花織が織られていた読谷村の住民だけが身につけられる、大変貴重な布でした。
明治時代に入ると、廃藩置県によって読谷山花織を身につけられる王族や貴族の身分が廃止になったことで、次第に織物自体も衰退していきます。
技術が忘れかけられていた頃、愛好家によって再び花織の技術を復活させようとする気運が高まります。こうして1964年(昭和39年)に、90年ぶりに読谷山花織は復活するに至りました。
*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/yomitanzanhanaori/ より
静かな心で織り込む可憐な花グアー
花織はその名の通り、花の模様を織り込んだかわいらしい布である。濃紺の地に赤や黄色の点が浮き出ているのが伝統的なもの。小さな四角い点々で花を表現しているので、手のこんだ刺繍のようにも見える。
息を吹き返した幻の織物
地元で「花グアー」と呼ばれる花模様には、ジンバナ(銭花)、カジマヤー(風車)、オージバナ(扇花)の3つの基本パターンがあり、大きさや組み合わせをアレンジして使う。ここに絣と縞を加えると、布に立体感が生まれる。
読谷は、琉球王国の時代、中国や東南アジアとの貿易の拠点として栄えた。異国の文化が次々と入ってくる中、15世紀ごろに地元に根付いたのが花織だった。御用布に指定されて王府の保護を受けたが、廃藩置県後の明治半ばから衰退し、とうとう幻の織物になってしまった。昭和39年、後に人間国宝となった與那嶺貞さんの努力で花織は息を吹き返した。村が力を入れたこともあって、織り手の数は少しずつ増えていった。
手も足も、全身を動かして織る
新垣澄子さんは、染色をしている夫の隆さんのすすめで20年前に始めた。糸の準備はたいへんでも、織り始めれば比較的楽、という織物もあるけれど、花織は織り始めてからも厳しい作業が続く。
ふつうの平織は、上糸と下糸の間を開けて緯糸(よこいと)を通すため、2枚の綜絖を足で交互に引き下げて織る。花織は、この綜絖(花綜絖)が10枚にもなる。綜絖からたれ下がる10本のひもを順番に足で引っ張りながら織っていく。まるで曲芸のようだ。綜絖の数が増えるほど花模様は複雑になる。
「15枚から20枚くらいは平気で使いますよ。自分でデザインしているから、どれを引けばいいかわかるんです。両手両足、全身を動かしながら織っています。織るのは時間との闘いでもあるし、自分との闘いでもある。やらないと布になりません。」
自分の作ったものは何年たってもすぐわかる
大切なのはただひとつ、気持ちを落ち着けて向うことだ。「むしゃくしゃして気分が悪いと、必ず間違えるんです。ほどくのに1日かかってしまいます。私は20年前に夫婦喧嘩はやめましたよ。自分をコントロールできないなら、その日は仕事をしないことです。」
今後は、だれにも真似できないものを作っていきたいという。季節感を盛り込んで、自分が着たい色柄をデザインする。
「自分の作ったものを着た人に会ってみたいですね。20年前のものだって見ればすぐわかりますよ。人と同じものを作っていないから。染めも自分が染めたのと人が染めたのとはすぐわかるんです。」
同業者の夫は一番身近な批評家である。
「まだ一度もほめられたことがないんです。ほめられたくてやってきたようなもの。あと何年たったらほめてもらえるのか。」
花織からはまだまだ離れられそうもない。
職人プロフィール
新垣澄子 (しんがきすみこ)
1949年生まれ。数々の賞を受賞するとともに、後継者の指導にもあたっている。
こぼれ話
愛する人への想いをこめたティサージ
手ぬぐいのことを読谷ではティサージ(手巾)といいます。花織のティサージは、昔から贈り物として使われてきました。読谷山花織事業共同組合の理事長、新垣隆さんにきくと、「これはティーバナといって、帯によく使う技法で織ります。紋織りの中では一番原始的な技法です。むずかしくはありませんが、手間ひまがかかります。人の手で糸を入れていくので、織りながらいろいろな模様に変えることができるのです」
昔の女性は模様に工夫をこらして織り、意中の男性に贈りました。これを「ウムイ(想い)のティサージ」といいます。女性同士が「彼女がそのくらいのものを織るなら、私はそれ以上のものを織ってあげよう」と競い合ったらしく、同じデザインのものはありません。「ウミナイ(祈り)のティサージ」は、中国や本土に旅立つ人の安全を祈って織られました。中国への旅は「唐旅(とうたび)」といい、命を落とす覚悟で出発したものでした。「唐旅」という言葉は、今では人が亡くなってお墓に入るという意味に使われます。そんな危険な旅の無事を祈って、家族や恋人のために心をこめてティサージを織ったのです。
*https://kougeihin.jp/craft/0128/ より
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