「大堀相馬焼」
歴史
大堀相馬焼は、300年以上の伝統を誇る陶器で26の窯元(内23が組合加入)があり、 国の伝統的工芸品に指定された、町を代表する特産品です。
2011年3月11日に発生した東日本大震災に伴う東京電力福島第一原子力発電所の事故により、多くの窯元があった大堀地区は現在も帰還困難区域に設定され、町内での事業再開が難しい状況となっています。
特徴
二種類以上の熱膨張の異なる釉薬をかけることによりできる「青ひび」
内側と外側で2つの器を重ねる「二重焼(ふたえやき)」の構造
狩野派の筆法といわれる「走り駒」の絵
「青ひび」
窯だしの際に陶器が外気に触れた瞬間から「ぴーん」という貫入音(かんにゅうおん)が鳴り響き、ひび割れが器全体に広がって地模様になります。
「二重焼」
内側と外側の器の間が離れているため、熱いお茶を入れて手に持っても熱さが手に伝わりません。
「走り駒」
熟練された筆使いで一気に描き上げます。
大堀相馬焼は、日用品でありながらも深い味わいのある焼き物として知られています。
また、貫入音は、日常生活に潤いと安らぎを与えてくれる心地よい音として認められ、福島県「うつくしまの音30景」に認定されています。
*https://www.town.namie.fukushima.jp/soshiki/7/314.html より
*https://kougeihin.jp/craft/0401/ より
産地 福島県 浪江町
歴史
大堀相馬焼は今から約300年の昔、浪江町大堀(旧大堀村)を中心として発達した焼物で、諸窯を支えてきたのは、陶技を修得した土地の農民や給人、新天地を求めて異郷からやって来た先進地の職人でした。相馬藩はこれを藩の特産物にしようと着目、元禄10年(1697年)には「瀬戸物師他領土へ出ることべからず」という布令を出して他領土への技術流出の防護に乗り出し、また、享保18年(1733年)には「今後下り瀬戸物を仕入商売してはならない。地元産の瀬戸物を主に使用するように」という地場産品愛用運動を布令して、藩による瀬戸物の買い入れと、一手販売をするようになりました。窯元も次第に隣村へと普及して、江戸末期には120戸の窯元を持つ東北随一の産地となりました。
明治期に入ると他産業への転化も相次ぎ窯ぶ家は激減、その後戦争による打撃も大きく、現在は20軒の窯元によって伝統の火を燃やし続けています。
特徴
大堀相馬焼は江戸中期の元禄3年(1690年)に開窯し、相馬藩の保護育成のもと窯元が300年の伝統を引継ぐ手造り品です。
主製品は、青磁釉による青ひびといわれひび割が器全体に広がった地模様となり素朴な味わいのある製品です。
青磁釉の外に、灰釉、あめ釉、白流釉等も使用し、日用品として厚く丈夫な製品です。
浪江町美森に埋蔵する陶土をろくろで手造りによって形成し、仕上げ後、陰干しにより完全乾燥した後素焼きします。そこに特有の「走り駒」の絵を描き、釉薬を掛けて本焼焼成します。また、独特の「二重焼」は、お湯が冷めにくく、熱いお湯を入れても持つことができます。
*https://www.tohoku.meti.go.jp/s_cyusyo/densan-ver3/html/item/fukusima_02.htm より
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