~Agiato で Agitato に~

再開後約20年になるピアノを通して、地域やほかの世代とつながっていきたいと考えています。

時分の曲

2009年08月21日 20時32分52秒 | 私のピアノ歴
昨晩ちょっと必要があって、ショパンのスケルツォ2番を弾いてみました。
実に25年ぶりくらい・・・・
その間、ただの一度も弾いたことありません。

私は中2になったとたんにピアノをやめたもので、子どもにはショパンをなかなか弾かせてもらえなかった昔のこと(私の先生だけかもしれませんが・・)、辞めるまでに弾いたショパンはワルツ集から数曲と、幻想即興曲のみ。
なので、やめた後、どうしても弾きたかったバラード1番は年に何回かの練習というスローペースで何年がかりで最後まで弾き、スケルツォ2番は大学に入ってからサークルの先生にレッスンを受けました。
たぶん人前で1回くらいは弾いたんじゃないかな・・という程度。


その後バラード1番は、大人になってから2回くらい人前で弾きましたが、スケルツォは弾かなかったですねえ。
で、ゆうべパンドラの箱を開けてみてどうだったかというと、
・・・・昭和は遠くになりにけり・・・・(笑)。
ショパンをつかまえて「昭和」もなにもあったものではないですけど、自分のなかではそんな感じです。あの激烈なパワーとテンションは今はもうないなあ・・と。
それは別に「昭和」という時代そのもののことなのではなくて、昭和の60年前後と重なった自分の20歳あたりのことなのですけど、技術のあるなし、曲の理解、練習量、そういうこと抜きに「その時期にしか弾けない曲」というのがたしかにあります。
それは自分にとって「その時期」ということであって、ヒトサマにお聴かせするとなるとまた話は別。
やっぱり弾きたい曲は思い立ったとき弾いとかないといけないなあ・・と思いました。
技術を習得するにはだいたい順序というものがあり、それに伴って今弾くべき曲、まだ時期尚早な曲というものが判断されるわけですが、そればかりにとらわれていると、精神的にその曲に対しての「旬」を逃してしまい、「この曲は自分のために書かれたのではないか」と錯覚するほどの一体感のようなものを感じないままに終ってしまうかもしれない・・・ブランクの長い私にはそのような曲は山ほどあるはずです。

アマチュア同士で話をしているとだいたい出るのが「死ぬまでにこの曲を弾きたい」という話題。
それは、ピアノに限らず、弦楽器、オーケストラ、みなさんそういう曲をお持ちです。たぶん、それぞれがそういう曲をこっそり練習したり、楽譜を眺めてはニヤニヤしたりしておいでだと思います。
私も3年前くらいまではそういう目標がありました。ひとつはモーツァルトの20番コンチェルトを弾くこと、もうひとつはブラームスのピアノ五重奏をやること。
これは奇跡的にというべきでしょうか、モーツァルトのほうは指揮者&電子オルガン4台をバックに第1楽章だけ、ブラームスのほうは友人に声をかけてもらって第1&4楽章をやることができました。
これだけで冥途の土産は充分と思っておりましたら、フランクの(チェロ)ソナタの第2楽章の伴奏だとか、オーケストラの一パートとしてピアノを弾く機会にも恵まれました。
ブラームスをやるあたりまでは、まったく楽しみで弾きまくっていて、エチュードをコツコツやろうなんて思いもせず・・(殴)。それはそれでよかったなあ、と思っています。あれらの曲は自分にとっておそらくあのころが旬だったのだと思います。
ケチのつけどころはたくさんありますし、実際今聴いたら自分でもどう思うかわかりませんが。
それがたとえアダ花であってもいいじゃないか、ある意味「時分(自分の?・・)花」であれば、というのが今の私の意見です。

そういう『死ぬまでに弾きたい曲』を頑張って人前で弾き、それをまたあたたかく称えるのがアマチュア仲間のいいところかもしれません。
他人と競ったり、評価したりする場は世間には山ほどあります。私自身もそういう場を捨てたわけではありません。が、いっぽうで「さまざまな事情の下に練習ができない」「先生に習いたいけど、時間や経済の点でなかなか・・」という大人の方々の『死ぬまでに弾きたい一曲』を手伝わせていただけたらこんなうれしいことはない・・としみじみ思います。