~Agiato で Agitato に~

再開後約20年になるピアノを通して、地域やほかの世代とつながっていきたいと考えています。

撮るべきか撮らざるべきか

2010年04月18日 13時19分50秒 | その他音楽
私の子どもの頃になかったもの・・・・ビデオカメラでの撮影。
現在うちにもビデオカメラあることはあるのですが、どうも動画には興味が薄く、子どもの運動会ですらめったに撮影することはありません。もっぱら写真と文章です。

幼稚園の運動会、お遊戯会、参観なんかすごいです。
生で自分の子どもを見ている親はごくわずか。よってここぞというところでも拍手は少なく、ちょっと寂しい感じ。
時々、子どもに頼まれてそういう行事の時に撮影をすることはあるのですが、撮りなれないせいか、目配りが悪く、結局わが子だけ追い続けて、全体がどういう動きをしてどんな作品であったのかさっぱり頭に入っておらず、これは自分には向かない・・・とほぼあきらめております。プロのカメラマンの映像を見ると、これらをきちんと網羅していて、細部・全体すべてわかるようにたった一台のカメラでも撮っておられるので、これも才能と訓練のなせるワザだとは思うのですが、そこまでのことは自分には無理なので、ひたすら一生懸命見る・・・に徹しております。

最近「どうしようか・・・」と思っているのはレッスンの撮影。
毎週のレッスンはどうなのかわかりませんが、月1回くらいの(特別な)レッスンの場合は撮影されているお母様がたが多いように思います。
自分の子どもに関していうならば、ピアノはまだいいとしても、バイオリンなんか、全体の姿勢、弓の角度、圧力、左手の押さえ方、音程、とてもとても記憶しきれるものではなく、かと言って自分が弾けないので的確にノートもとれず、親子でレッスンの半分も帰ってから再現できてないのではないか・・・・と時々思います。たぶん先生も撮影には反対されないと思うのですが。

・・・・ただ、ここから先は私の頭の古さとの戦いがありまして・・・

昔、ほんの何年か茶道をやっていたことがあるのですけど、先生は本で勉強することはおろか、練習の時にメモをとることも厳しく禁止されてました。
勉強熱心にメモなどとろうものなら、「ここで覚えなさい。体で覚えて帰りなさい。」と叱り飛ばされました。・・・私はそこまで熱心でなかったのでメモをとろうという気すら起こさなかったのですが(汗)。
日舞もその場ですべて覚えて帰るしかありませんでしたから(当然といえば当然ですが)、「忘れたが最後」という集中力を動員するしか方法はありませんでした。
これらは「師匠を見て芸を盗む。そして代々それを伝えていく」という色の濃い習いごとなので、やむなしなのですけど(今でもそうなのかどうかはわかりません)、西洋音楽はどうなのか?

これは微妙です。
もともと楽譜が存在するものですから、無のところから師匠にすべて教わるわけではなく、「楽譜を見て練習していく」という前提があります。また多くの先生がたは、楽譜に書き込みをすることを許可されています(なかには、いっさいの書き込みを禁止されている方もいらっしゃるとききます)。
ただやはり「メモをとる」ということでどこか油断があるというか「あとで見ればいいや」とひそかに思っているわけです。それが証拠にはうちに帰って「はてこれは何のことであったか?」と首をかしげることがある・・・私だけかもしれませんが(汗)。
人によってはメモでもとらないとボーっと聞き流してしまう、ということもあるわけで、これはケースバイケースとは思います。

楽譜上のこと、たとえば譜読みのこと、リズムのこと、などは注意を書き込むとしても、「弾き方」というものは、ある意味踊りと似ていて、姿勢・腕や指の動きなどは、先生のものを基本的に「体で覚えて」帰るものであるので、熱心な生徒であればあるほど先生に似てくるはずなんですよね。
門下の発表会などをきかせていただくと、先生と生徒の動きがそっくりということは普通にあることです。で、大きくなってその先生の下を離れても、小さいころからたたきこまれた動きは変わらず、そっくりであり続けたりもします。
別の見方をすれば「クセ」は先生によって植えつけられたものでもあるわけです。その「クセ」の大小、良し悪しは人によって分かれると思いますが。


こういうところが芸事のいいところでもあり、おそろしいところでもあって、
〇〇流というものを伝承していく必要があるのなら、それはそれで素晴らしいことであり正しく伝わっていることであるのですけど、西洋音楽に関してはそれが素晴らしいとばかりもいえない。
そういうことをつらつら考えると、「その場での集中力」で覚えられるだけ覚えて帰るのがいいんじゃないかな・・・うちに帰ってビデオをずっと見て1週間復習するのもどうなのかな・・と思ったりもするわけです。
たぶん人の記憶というのは都合よく出来ていて、自分にとって受け入れがたいものは、いかに集中していてもしばらくたつと自動的に消去されていたりするかもしれない、とも考えたりもします。何回言っても身につかないことは、それはそれで理由があろうとも思います。


・・・・なかなか悩ましいところなのですけど、「さあレッスン」という場面でいきなり三脚が開かれるのを目にするたび、「うちはどうしたもんか~」といったりきたり・・・・