HSTI骨格調整法から帰ってくると、実家に向かう途中の妹からメール。
再手術の先生と面談。 食事、温熱、などの療法の事を話すと物凄く説教されたという。
厄介ながんなので、再手術も、その後の投薬も必ずやらなくては駄目だと強く言われたそうだ。
せっかく、じぶんでやり始めた事が否定されたようで、落ち込んでいたのだろう。
しかし、有名で、妹も感じの良い方といっていたが、 医者のその自信はどこから来るのだろう。
患者の身体にメスを入れ、それでも治らずに亡くなる方がいる。
もしかしたら、切らなくてもいい臓器を摘出しているかも知れない。
医者のやっていることが、完全とは言えないのに、 自信はどこから来るのだろうか。
医者がやったのだからと、結果を問われない、 そこから来ているのではないか。
それは、癌が、大変な病気で、今の医学では治せない、という常識があり。 人間の身体は、複雑なのだから、みんな同じようには行かない、 だから、死ぬこともある。
という、前提で免責されているのではないか?
だとしたら、その複雑な人間の身体を扱うのに、何故、西洋医学以外の治療法を否定できるのか?
医療行為の前には、西洋医学が絶対だと決めつけ、
結果に対しては、人間の身体の複雑さを免責に使うのはおかしくないか?
癌や、人体が、難しいものだと、 未だに解明されていないものだという、前提を免責に使うのであれば、 当然に民間療法の効能についても検証や、検討してもいいのではないか?
未だに解らないものを扱うのだから、自分のやっているもの意外を全て排除するのは、どう考えてもおかしい。
医者は、何故、自分自身でそう思わないのかが、 不思議でならない。
この医者も、手術のプロであって、癌や、人体のプロではない。
手術において意見を通すのはいいかもしれないが、癌の根治、や、免疫力の向上についての知識はないのだから、 一方的に意見できるほどの事でもないと思う。
しかし、最終的に、こんな事を言えば、
じゃあ好きにしてください、、、となる。 実際、自分の3人目の担当医はそうだった。
これでは、意見も言えない。 そして、医者が絶対になる、 西洋医学が絶対になる。
妹の心中安らかなることを願う。 しかない。
再手術の先生と面談。 食事、温熱、などの療法の事を話すと物凄く説教されたという。
厄介ながんなので、再手術も、その後の投薬も必ずやらなくては駄目だと強く言われたそうだ。
せっかく、じぶんでやり始めた事が否定されたようで、落ち込んでいたのだろう。
しかし、有名で、妹も感じの良い方といっていたが、 医者のその自信はどこから来るのだろう。
患者の身体にメスを入れ、それでも治らずに亡くなる方がいる。
もしかしたら、切らなくてもいい臓器を摘出しているかも知れない。
医者のやっていることが、完全とは言えないのに、 自信はどこから来るのだろうか。
医者がやったのだからと、結果を問われない、 そこから来ているのではないか。
それは、癌が、大変な病気で、今の医学では治せない、という常識があり。 人間の身体は、複雑なのだから、みんな同じようには行かない、 だから、死ぬこともある。
という、前提で免責されているのではないか?
だとしたら、その複雑な人間の身体を扱うのに、何故、西洋医学以外の治療法を否定できるのか?
医療行為の前には、西洋医学が絶対だと決めつけ、
結果に対しては、人間の身体の複雑さを免責に使うのはおかしくないか?
癌や、人体が、難しいものだと、 未だに解明されていないものだという、前提を免責に使うのであれば、 当然に民間療法の効能についても検証や、検討してもいいのではないか?
未だに解らないものを扱うのだから、自分のやっているもの意外を全て排除するのは、どう考えてもおかしい。
医者は、何故、自分自身でそう思わないのかが、 不思議でならない。
この医者も、手術のプロであって、癌や、人体のプロではない。
手術において意見を通すのはいいかもしれないが、癌の根治、や、免疫力の向上についての知識はないのだから、 一方的に意見できるほどの事でもないと思う。
しかし、最終的に、こんな事を言えば、
じゃあ好きにしてください、、、となる。 実際、自分の3人目の担当医はそうだった。
これでは、意見も言えない。 そして、医者が絶対になる、 西洋医学が絶対になる。
妹の心中安らかなることを願う。 しかない。