唯のブログ。

病気の体験、療養生活や日々思いついた事などを書き留めているブログ。時々毒吐き。楽しめれば最高、無理なら受け流す。

スキーが折れて、歯が欠けて

2009-12-26 10:43:25 | インポート
 
 2日前、先シーズンちょっとだけ行った、湯沢のスクールのコーチに偶然会い、しかも自分を覚えていてくれた見たいで声をかけてもらった。

 時間が無かったのに、山頂から下まで1本ずっと滑ってくれて診てくれた。 欠点を直して貰い、ポイントを教えてもらい、 それだけで随分と変われた。

25日は、かぐらにスキー行った。 感覚をつかんでいい感じで滑っていたが。 すいていたので、ジャイアントでコブの稽古に。

何本か滑って慣れてきた頃、 コースを外れて、全く違う方向からコブに衝突、 ベキッといってそのまま転んだ。

 もしや、 スキーが折れた。 完全ではなく、ひびが入った。

足がきつかったが、仕方なく折れた方に負担をかけないように降りてきた。

 
 それだけで凹んでいるのに、もしかして、どこかの保険の保証対象になっているのではないかと、かぐらの事務所で証明について聞きに行くと、

 そこのフロントのお兄さんがまったく頓珍漢で閉口した。

幸い別な人が理解してくれて済んだが、こちらでまた気分が悪くなった。

 スキーが折れた現状を確認してもらおうと行ったのに、 全くクレーマーみたいな扱いをされた。
 保険会社からの書類を持ってきてからにしてくれ、との一点張りで、こちらの意図が全く理解できない。

 どうやら、証明はめくら判で済ませているようなのだが、 当たり前の行動をしているのに、理解できないとはどういうつもりなのか?

 こちらが、スキー場に知らせなかったら、スキー場はスキーが折れた証明が出来ないでしょう。 
 どうやって折れた事を確認し、 証明書に判を押そうというのか?

めくら判も結構だが、本来の手続きが仕方なく省略されているという認識無しになされている事に気がつかないとは、 何とも寂しいフロント君。
 
 

 2重に凹んで帰ってきたが、 

 調べてみると、ヤフーの保険が継続されていた。 よかった。 お金が出るみたいだ。

 しかし、夜、 食事中、歯の詰め物が折れた。 今回治療してもらっている、1本6万円の詰め物、 一部かけてしまった。

 29.30日に歯医者に行くのでそれまで我慢か?

どうも、折れ続けた1日だった。
  
 

 

 
 


殿様商売

2009-12-23 09:53:48 | インポート
 21日、吹雪の中、夜中の11時頃コンビ二に買い物に出た。

ここのコンビ二、勤怠管理が明らかにおかしい。

人気の無いこの時間に3人も従業員がいた。

別の日、多い時は 4人の時もある。 客はいないのに。

日中閑散時も同じような状況の時がある。 

 スキーシーズン、や、観光イベントの時などは、棚から商品がなくなってしまうくらい売れている。
 
  店内が客であふれて身動きが取れないような時もある。

 儲かっていて、 これだけ雇用に余裕があるということは、すばらしいが、何もそこまでしなくてもと、思ってしまう。

 経営者は、現状を知らないのではないか?

ちなみに、言葉使いや、接客などのCSについては、全く駄目で時々嫌な気持ちになる時がある。

 昔の観光地の殿様商売がここでは出来るのだ。

湯沢のコンビ二恐るべし。

 

 


祖母

2009-12-21 11:12:45 | インポート
 
 母方の実家で、祖母は、前日挨拶した時は、ピンとこないようだったが、
 翌日の朝、改めて挨拶するとしっかりわかってくれて、

あら、直樹かい。 と言って、びっくりし うれしそうに手を強く握ってくれた。

 農家の嫁として大変だった事はその手を触ればよくわかる。
 大きくて、ごつい手、 おばちゃんの手は男のようだろう。 そう言っていた。

 その後、茶の間で朝食をとるのだが、中々手を付けないでいた。 
 どうしたのか聞くと、 うれしくて胸が一杯で食欲が出ないと言っていた。 

 幼少時は本当にお世話になった。 覚えていてくれてうれしい。
祖母も昔の話をして、やんちゃであばちゃんによく怒られてたのを覚えているかと聞いてきた。

 孫、曾孫がたくさんいてにぎやかでうれしいよ。
 
 ケアサービスを受けに行くとみんな、孫の事を悪く言うがおばちゃんにはわからないよ。 うちはみんな良い孫に育ってくれて本当に幸せだよ。

子供の時で、自分が忘れているような話もされた。 

色々な事があったが、今は本当に一瞬のように感じるよ。

 夢でも見ていたのかななどと思うようだよ。

 しばらく昔話をした。

 昨日の行動が思い出せなくて考えていたり、
 今日はデイサービスが無いのに着替える準備をしたり、少しは衰えているが、おばちゃんは、そのまま。

 明るい前向きな考え方で、 会話の後には必ず笑う。

 仕方が無いんだよと、受け入れるおおらかさ。

 こうしてお世話してもらってありがたい、 みんな幸せに育ってくれてありがたいという感謝気持ち。 
  
 激動の100年を生き抜いてきた円熟感は、さすがだった。

 話が出来て本当によかった。 少しぼけているお陰で本音が出ている様で、 それが真っ直ぐで、こちらまで暖かい気持ちになる。

帰り際、別れる時は、コタツに入ってずっとこちらを見ていた。

ガラス戸を閉めるときは視線が切なかった。

 
 
「 おばあちゃん、本当に子供の頃からお世話になってどうもありがとう。

 感謝してるよ。
 
 また、会えるように、いつまでも元気でいて頂戴ね。」

帰りの車の中で、はっきりこう言って来ればよかったと感じたが、時遅し。

 次回には、必ず。
 
 

 
 
 

 
 

 
 


祖父、 1周忌。

2009-12-21 10:39:32 | インポート
 昨年の12月21日に母方の祖父が亡くなった。 1周忌法要はもう済ませていたが、19日にお世話になった自分もお墓参りに行ってきた。

 こうして暇にしているので、葬儀の時は長い時間久しぶりに親戚の方と時間を共に出来た。 時間が経っていてもあまり関係ないという感じだった。

 それから1年、あっという間にきた。 幼い頃はよく泊まりに行って、祖父母、多くの叔父、叔母にお世話になった。 叔父、叔母も近所にいる人が多いので、直ぐにみんなに会える。

 大人になっても関係ないのだろう、 泊まって行けと強く勧めてくれる。
泊まってきた。 44歳の俺。

  お酒飲んで、色々な話をして、甥っ子世代の子供達と遊んで、なんとも楽しい、良い時間を過ごさせてもらった。
 
 みんな、自分の心配をしてくれる。

 子供の頃に、大人のイメージをたくさんくれた方々。
 みんな自立して自分の人生をしっかり確立している方々。

身近に、よき見本がたくさんあったのに、仕事もしていない、結婚もしないで、何一つ見習えていない自分。 

 本当によくしてもらう。 帰りには自家製味噌、野菜、泡盛など多くのお土産を持たせてもらった。

 祖母は、もう100歳近い。 最近はちょっと痴呆気味。 嫁に入った叔母さんが面倒をみてくれている。

 看護婦で仕事をし、家事をこなし、祖母の介護、1年前までは祖父も。
そして、今は、孫の面倒までみている。
次女の息子は、この家で朝飯を食い、登校し、この家に戻ってくる。

今回は、長女が具合が悪く入院してしまった、東京まで孫を迎えに行って週末は栃木の実家で面倒を見ていた。

 
 いったいどれだけすごいのか?

 自分が行った時は、2時間の昼休みを使って家に帰ってきて、たくあんを漬けていた。

 恐れ入る。 本当にすごい。
  

  


師範

2009-12-18 18:03:48 | インポート
 師範。

 師範連中は、常識に欠ける。とは、よく言われることだ。
 (当たり前だ、くだらない常識の関係ない世界で生きているのだから。)

 師範も よくそう言われていた。
 古町の飲み屋では、評価が2分されていた。

 しかし自分には関係無い。 師範は思いやりがあって暖かい人間だと思う。 少なくとも自分にはそうしてくれた。

 文句を言うやつは、自分が知らないうちに失礼な事や気に触る事をしているのではないだろうか、 だから相手の対応も邪険になる。 
 当たり前だが、自分では気づかず相手を責めているような気がする。

自分はいつも気に掛けてもらったから良い印象しか持っていない。

  経験も無いのに全日本の代表にしてもらった。
 飛び級、飛び級で 出世が早かった。

いつも気に掛けていただき様々な経験をさせてもらたこと。 全て良い思い出になっている。

 現役をやめていた自分に師範はアジア大会代表の権利をくれた。
 今まで頑張ってきたことに対する褒美だといって北海道へのきっぷをくれた。
 ありえない事だが、師範は自分で決めてしまった。
 結果、惨敗したが、何も言われなかった。

  しかし、師範は厳しい状境にあったと思う。 しかし、自分には何一つ言わなかった。 申し訳なかった。

 転勤で新潟を離れる時は辛かった。 

 師範に挨拶に行こうと思っていると、前日から涙がこらえられなかった。

当日、菓子折りを買っているときもうるうるきていた。

 師範の家に行くと
 「長い間お世話になりました、これ、くだらないものですが。」と、言うのが精一杯だった。 

 すると師範に、 「それだけか、お前は随分と冷たいな。」
と言われてしまった。

 その瞬間、せき止めていた感情が抑えきれずどうしようもなくなってしまった。
 
 声を上げて大声で泣いてしまった。
自分でも不思議なくらいに泣けたが、それが本心だったのだと思う。
 
 それくらい、新潟での極真会での思い出は重たいものだった。

 新潟を離れても師範のことは忘れる事ができず何度か会いに行っていた。
  その度に道場を継いでくれと言われていたが、何となくピンとこなくて過ごしていた。

 今は知っている人も居ない、今更出る幕も無いので、師範には本当に申し訳なく思う。