アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

時の流れを楽しめない

2017年05月01日 | Weblog
 「生まれたときから、ケータイ・スマホがある世代」がぁ…当たり前の顔で押し寄せてきております。彼らにとって、「普通にあるモノ」ですから、ありがたみが薄い。私など、15年ほど前に、世間から遅れながらも「ケータイ」を持つことが出来まして、文明の恩恵に浴したものです。今も、もちろんガラケーと呼ばれているモノを所持。
 カミサンが「スマホ嫌い」なので、「スマホ、ほしいなあ」などとは言えない。ただ、スマホがなければ困ることもあります。旅先で、航空券の変更をしたいとき等です。このケースでは、「スマホさえあれば」を連呼します。カミサンも、「困ったなあ」という表情はつくりますが、急場を凌ぐと、もとの「スマホ嫌い」に戻ります。我が家は、「生涯ガラケー」で終わりそうです。
 なぜそれほどスマホが嫌いかって?スマホに限らないのですが、「新しいモノ」が嫌い。用心深いというか、プレミアム用心深い…のです。

 ここまでが前置き。
 さてさて、鷲田清一さん(「待つ」角川選書)は、(スマホ・ケータイの普及により)効率よく時間を使えるようになった一方で「長い目で見る」「機が熟すのを待つ」といった余裕が、社会から失われつつあるのではないか。「意のままにならないもの、どうしようもないもの、じっとしているしかないもの、そういうものへの感受性をわたしたちはいつか無くしたのだろうか」。
 と、書いている。凄い人だと思います。カミサンが、ここまで考えてスマホ嫌いになっている…それはないですねぇ。

 ここで、是非書いておかなければならないことが。俵万智さんにご登場頂くわけですがね。
 「書き終えて切手を貼ればたちまちに返事を待って時流れだす」
 これは、鷲田さんの言う、「意のままにならないもの、どうしようもないもの、じっとしているしかないもの、そういうものへの感受性…」に対するぅ…応援と警鐘と、憧憬と、方向性へのパイロット…。早い話が、「スマホ・ケータイ社会よ、この短歌を胸に刻め」と。

 どうゆうことかって?「時流れだす」ですね。スマホ・ケータイでは、時が流れないのです。
 学生時代は、京王線の「多磨霊園駅」から徒歩4分の所に住んでおりました。京王線沿線に、大学も、友達もおりまして、京王線の新宿駅の「掲示板」は、よく利用しておりました(京王線を利用されていた方は、「あっ!あの掲示板、知ってる!」と思われたはず)。あれから、50年!あの掲示板は、すでに消えていることでしょう。
 なぜ消えたか?100%の人が、スマホ・ケータイを持つようになり、待ち合わせのかたちが変わったから。遅れそうなら、移動中にも連絡を入れられる。待ちあぐねて、待ちぼうけ-ということもないっ!つまり、「掲示板にチョークで書くぅ、期待と絶望を味わうことが出来ない」。…これって、趣がないよねぇーっ!時間が流れない。

 俵万智さん、…書き終えて切手を貼ればたちまちに返事を待って時流れだす…。
 手紙が届くまでに数日。返事が届くまでにさらに数日かかります。メールでは、返信までに待っても数分。時を流さずに…返信が来てしまう。感性も趣もあったもんじゃない。手紙の返信を待つ…これは、濃厚というかハイクオリティというか…こういう時間を味わえないのは不幸です。

 で、カミサンは…手紙もせっせと書きますが、メールもせっせと…。ガラケーでのメールなんですがね。
 メールが来たら即座に返信。返信の返信が来たら、またまた返信。その返信が来たら、またまたまた返信。…これが続く…。止めてやらなければ永遠に続くと思われるので、私が、「もう、いいんじゃないの」と言います。「自分の返信で、このメールを一件落着にしたい」…手紙の返信を待つ心?

 これって、「意のままにならないもの、どうしようもないもの、じっとしているしかないもの、そういうものへの感受性をとりもどした」ってことになるんでしょうかねえ。
 それにしても、我が家に「スマホが来る日」は、あるのかなあ?3歳になったばかりの孫でもスマホに精通しているんですがねぇーっ。