賛美とは神を褒め称える事、神に向って発した歌声をいう。またその賛美には楽器を用いた事も聖書に書かれている。
教会の賛美のあり方についてずっと考えている。
そして自分が楽器をもって賛美をする者として召されているのか導きをもとめている。
このブログを前から読んでくださっている方、またはアメリカの教会から私を知っている方々は、私が長男の障碍を通して主に導かれ、カテゴリーのキリスト教(証)に書いたように神様からの数々の恵みを知っていらっしゃると思う。
もう3年も前のことだ。
帰国して新しい教会に仕え、主の恵みの数々に私はどうやって答えたらよいだろうかとかんがえていた。
「主よ、私はあなたのために何をしたらいいでしょうか?」
こんな祈りをしつづけた。
その頃聖書を読むたびに「賛美しなさい。」「賛美するものとなりなさい。」「天幕へ帰っていった。」という箇所が目に留まるようになった。一体なぜこの箇所が気になるのだろう。神様は何を言いたいのだろう。それとも私の思い過ごしなのだろうか。
そして以前の牧師に教会の礼拝部に参加するように勧められたことを思い出した。「あなたを礼拝部に勧めたのは賛美のことがあるからです。」
その言葉は礼拝と賛美ということを深く考えるきっかけとなった。
ちょうどこの頃ゴスペル音楽院に出会い、ためしに聴講する機会が与えられた。
その日は「礼拝音楽奉仕者心得」という授業であったが、私にとっては目が開かれる事ばかりですぐにでもこの学院の通信科で勉強したいと思った。
授業の後、講師の方に、気になっている御言葉がある事を告げてみた。彼女は「もっと具体的に教えてくださいと祈るのよ。私もあなたのためにいのるわ。」といってくださった。
そして何ヶ月か祈る日が続き、ディボーション(聖書を読み、個人的な礼拝の時間)の時に第一歴代誌23章5節の
「そして、四千人は門衛となり、四千人は私が賛美するために作ったった楽器を手にして賛美するものとなりなさい。」
の御言葉が目に飛び込んできた。
フルートを持って賛美する者となるようにということなのだろうか?
たんに自分がそうしたいという欲なのじゃないだろうか?
それとも教会の中の賛美のことだろうか?
地域での音楽活動でも主に向って賛美するように吹いたり、なるべくアメイジンググレイスなどの賛美歌曲を選んできた。しかし、その時々コンサートのテーマが在るし音楽仲間にはお寺の住職もいるのでそうそう神様に関する曲はできない。それでもフルートを吹く事で賛美歌じゃなくて自分だけでも賛美する気持ちで地域コンサートで演奏してきた。
牧師にはフルートでの奏楽、礼拝の流れの中で賛美することを申し出ているがなかなか実現しない。
それならばせめて賛美歌でとあらかじめ次の主日に歌う賛美歌、聖歌の箇所をおしえてもらって練習したり、礼拝部で賛美についていろいろと意見をいってみたりした。というのも教会の賛美が一致しないのである。だから子どもも歌いやすいワーシップソングを取り入れたらどうかとか、賛美についての学びをしたらどうかとか。
主は賛美の中に住まわれるという。
またゴスペル音楽院で様々な賛美を学んでいく中で礼拝における賛美とは礼拝への備えであり、会衆を賛美をもって主の深い臨在へと導いてゆく、実に重要な事だと気付かされた。だから霊的に一致した最高の賛美を捧げたいのだ。
しかし、都内の大きな教会から講師を向え、学びをしたがあまり人は集まらず役員、礼拝部、音楽奉仕者、会員の中の数名であった。また私が学んできた事、受洗したアメリカの日本語教会での賛美、とその講師のかたの賛美についての見解の相違もあった。
礼拝も賛美も音楽も主のもの。主が導かれるもの。
私が頑張って変えるものではない事はよくわかっているはずなのだが、なんだか空回りしてしまった様に思える。
でも私に出来る事、フルートを吹く事で神様を賛美し、証したいと強く思うようになっていったのだ。そして主ある人々と、特に賛美者と交わりを持ちたい、分かち合いたいという思いが強くなっていった。そして気がついた時には、クリスチャン音楽家の集まりであるユーオーディア管弦楽団に電話をしていた。入団できるとは思っていないが見学を申し出たら快くお許しくださった。
コンサート前日の忙しいところ本当に感謝である。
ユーオーディアの方々との交わりは出来なかったがその賛美のあり方や演奏の合間に祈る言葉に胸がいっぱいになった。こんなに多くのクリスチャン音楽家が集まり
ただ主に栄光を帰すためだけに集まっているのだ。そしてコンサートに来てくれた人、一人ひとりに神様からの祝福が在るように祈っている。
事務局の方はとても親切な方でこの楽団はプロもアマチュアもオーディション、資格もない事、ただそのときに演奏者を募るといった形であり、重要なのは信仰であるといっていた。
コンサートには夫といった。そこでは私達に洗礼を授けてくれたK先生にもお会いできた。
コンサートではクワイヤ、管弦楽団、ソリスト、指揮者、それぞれが素晴らしい賛美をささげていた。最後に会場に来ていた人々と楽団が一緒になって「聖なるかな」を賛美した。
ああ、でも私には雲の上の人々だ。
神様は私にどんな賛美をもとめているのだろう。私の力は弱く乏しい。
主よ、導いてください。
兄弟姉妹の皆さん、お祈りお願いします。
教会の賛美のあり方についてずっと考えている。
そして自分が楽器をもって賛美をする者として召されているのか導きをもとめている。
このブログを前から読んでくださっている方、またはアメリカの教会から私を知っている方々は、私が長男の障碍を通して主に導かれ、カテゴリーのキリスト教(証)に書いたように神様からの数々の恵みを知っていらっしゃると思う。
もう3年も前のことだ。
帰国して新しい教会に仕え、主の恵みの数々に私はどうやって答えたらよいだろうかとかんがえていた。
「主よ、私はあなたのために何をしたらいいでしょうか?」
こんな祈りをしつづけた。
その頃聖書を読むたびに「賛美しなさい。」「賛美するものとなりなさい。」「天幕へ帰っていった。」という箇所が目に留まるようになった。一体なぜこの箇所が気になるのだろう。神様は何を言いたいのだろう。それとも私の思い過ごしなのだろうか。
そして以前の牧師に教会の礼拝部に参加するように勧められたことを思い出した。「あなたを礼拝部に勧めたのは賛美のことがあるからです。」
その言葉は礼拝と賛美ということを深く考えるきっかけとなった。
ちょうどこの頃ゴスペル音楽院に出会い、ためしに聴講する機会が与えられた。
その日は「礼拝音楽奉仕者心得」という授業であったが、私にとっては目が開かれる事ばかりですぐにでもこの学院の通信科で勉強したいと思った。
授業の後、講師の方に、気になっている御言葉がある事を告げてみた。彼女は「もっと具体的に教えてくださいと祈るのよ。私もあなたのためにいのるわ。」といってくださった。
そして何ヶ月か祈る日が続き、ディボーション(聖書を読み、個人的な礼拝の時間)の時に第一歴代誌23章5節の
「そして、四千人は門衛となり、四千人は私が賛美するために作ったった楽器を手にして賛美するものとなりなさい。」
の御言葉が目に飛び込んできた。
フルートを持って賛美する者となるようにということなのだろうか?
たんに自分がそうしたいという欲なのじゃないだろうか?
それとも教会の中の賛美のことだろうか?
地域での音楽活動でも主に向って賛美するように吹いたり、なるべくアメイジンググレイスなどの賛美歌曲を選んできた。しかし、その時々コンサートのテーマが在るし音楽仲間にはお寺の住職もいるのでそうそう神様に関する曲はできない。それでもフルートを吹く事で賛美歌じゃなくて自分だけでも賛美する気持ちで地域コンサートで演奏してきた。
牧師にはフルートでの奏楽、礼拝の流れの中で賛美することを申し出ているがなかなか実現しない。
それならばせめて賛美歌でとあらかじめ次の主日に歌う賛美歌、聖歌の箇所をおしえてもらって練習したり、礼拝部で賛美についていろいろと意見をいってみたりした。というのも教会の賛美が一致しないのである。だから子どもも歌いやすいワーシップソングを取り入れたらどうかとか、賛美についての学びをしたらどうかとか。
主は賛美の中に住まわれるという。
またゴスペル音楽院で様々な賛美を学んでいく中で礼拝における賛美とは礼拝への備えであり、会衆を賛美をもって主の深い臨在へと導いてゆく、実に重要な事だと気付かされた。だから霊的に一致した最高の賛美を捧げたいのだ。
しかし、都内の大きな教会から講師を向え、学びをしたがあまり人は集まらず役員、礼拝部、音楽奉仕者、会員の中の数名であった。また私が学んできた事、受洗したアメリカの日本語教会での賛美、とその講師のかたの賛美についての見解の相違もあった。
礼拝も賛美も音楽も主のもの。主が導かれるもの。
私が頑張って変えるものではない事はよくわかっているはずなのだが、なんだか空回りしてしまった様に思える。
でも私に出来る事、フルートを吹く事で神様を賛美し、証したいと強く思うようになっていったのだ。そして主ある人々と、特に賛美者と交わりを持ちたい、分かち合いたいという思いが強くなっていった。そして気がついた時には、クリスチャン音楽家の集まりであるユーオーディア管弦楽団に電話をしていた。入団できるとは思っていないが見学を申し出たら快くお許しくださった。
コンサート前日の忙しいところ本当に感謝である。
ユーオーディアの方々との交わりは出来なかったがその賛美のあり方や演奏の合間に祈る言葉に胸がいっぱいになった。こんなに多くのクリスチャン音楽家が集まり
ただ主に栄光を帰すためだけに集まっているのだ。そしてコンサートに来てくれた人、一人ひとりに神様からの祝福が在るように祈っている。
事務局の方はとても親切な方でこの楽団はプロもアマチュアもオーディション、資格もない事、ただそのときに演奏者を募るといった形であり、重要なのは信仰であるといっていた。
コンサートには夫といった。そこでは私達に洗礼を授けてくれたK先生にもお会いできた。
コンサートではクワイヤ、管弦楽団、ソリスト、指揮者、それぞれが素晴らしい賛美をささげていた。最後に会場に来ていた人々と楽団が一緒になって「聖なるかな」を賛美した。
ああ、でも私には雲の上の人々だ。
神様は私にどんな賛美をもとめているのだろう。私の力は弱く乏しい。
主よ、導いてください。
兄弟姉妹の皆さん、お祈りお願いします。