11日の日曜日。ペンテコステ礼拝であった。
ペンテコステ(聖霊降臨節)というとどうしてもエル・グレコの絵「ペンテコステ(五旬節)」を思い出してしまう。私の好きな絵の一つである。
その絵には驚きの顔で天を仰ぐ使徒、また天をあがめる使徒達、それぞれの頭上には炎(のようなわかれた舌)がとどまっている様子が描かれている。
この絵は新約聖書の使徒の働き2章1~3節の様子を描いたものだ。
「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、一人ひとりの上にとどまった。」
この後使徒たちは聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに他国の言葉で話しだし、周囲のいろいろな国からきていたユダヤ人たちをびっくりさせている。
そして力強くキリストを証し、多くのものが悔い改めてクリスチャンとなっていくのである。キリストを救い主だと信じたものには聖霊の賜物があたえられるのだ。
三位一体という言葉をご存知の方は多いと思う。よくこの頃、政治だの、料理の味などに使われたりするが
・・・・本当はキリスト教の神学用語なのだ。
よく「父と子と聖霊の御名によって」と教会で祈ることがある。それは父なる神、子なる神(キリスト)、聖霊の三位一体の神ということなのだ。
じゃあ三つの神なのかと勘違いしないでくださいませね。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/dogeza.gif)
父なる神、子なる神、聖霊、それぞれの本質が1つだということでキリスト教は唯一神を信じる宗教である。
でもこれも聖霊の働きがなければ信じることは出来ないのだ。そして私達信徒がキリストに倣い、生活していくにも聖霊の助けがなければできないのである。聖霊は私達のうちに住むうちなる神であり、導いてくださるのだ。
キリストが十字架にかかる前に使徒達にこういっている。
「わたしは父にお願いします。父はもう1人の助け主をあなた方におあたえになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためです。その方は真理の御霊です。世はその方を受け入れることが出来ません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなた方はその方を知っています。その方はあなた方と共に住み、あなた方のうちにおられるからです。」(ヨハネの福音書14章16~17節)
そして、キリストが復活して後、昇天する直前にもこういっている。
「しかし、聖霊があなた方の上に臨まれるとき、あなた方は力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、私の証人となります。」(使途の働き1章8節)
だからその後の使徒の働きにはめざましいものがあったのである。
この日の礼拝では「ラシーヌ讃歌」をフルートで賛美した。「どうか、多くの人が救われますように。私の母の上にも聖霊の働きがありますように。」と心で願いながら。また助けぬしなる聖霊が与えられていることに感謝しつつ。
ペンテコステ(聖霊降臨節)というとどうしてもエル・グレコの絵「ペンテコステ(五旬節)」を思い出してしまう。私の好きな絵の一つである。
その絵には驚きの顔で天を仰ぐ使徒、また天をあがめる使徒達、それぞれの頭上には炎(のようなわかれた舌)がとどまっている様子が描かれている。
この絵は新約聖書の使徒の働き2章1~3節の様子を描いたものだ。
「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、一人ひとりの上にとどまった。」
この後使徒たちは聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに他国の言葉で話しだし、周囲のいろいろな国からきていたユダヤ人たちをびっくりさせている。
そして力強くキリストを証し、多くのものが悔い改めてクリスチャンとなっていくのである。キリストを救い主だと信じたものには聖霊の賜物があたえられるのだ。
三位一体という言葉をご存知の方は多いと思う。よくこの頃、政治だの、料理の味などに使われたりするが
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_naki.gif)
よく「父と子と聖霊の御名によって」と教会で祈ることがある。それは父なる神、子なる神(キリスト)、聖霊の三位一体の神ということなのだ。
じゃあ三つの神なのかと勘違いしないでくださいませね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/dogeza.gif)
父なる神、子なる神、聖霊、それぞれの本質が1つだということでキリスト教は唯一神を信じる宗教である。
でもこれも聖霊の働きがなければ信じることは出来ないのだ。そして私達信徒がキリストに倣い、生活していくにも聖霊の助けがなければできないのである。聖霊は私達のうちに住むうちなる神であり、導いてくださるのだ。
キリストが十字架にかかる前に使徒達にこういっている。
「わたしは父にお願いします。父はもう1人の助け主をあなた方におあたえになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためです。その方は真理の御霊です。世はその方を受け入れることが出来ません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなた方はその方を知っています。その方はあなた方と共に住み、あなた方のうちにおられるからです。」(ヨハネの福音書14章16~17節)
そして、キリストが復活して後、昇天する直前にもこういっている。
「しかし、聖霊があなた方の上に臨まれるとき、あなた方は力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、私の証人となります。」(使途の働き1章8節)
だからその後の使徒の働きにはめざましいものがあったのである。
この日の礼拝では「ラシーヌ讃歌」をフルートで賛美した。「どうか、多くの人が救われますように。私の母の上にも聖霊の働きがありますように。」と心で願いながら。また助けぬしなる聖霊が与えられていることに感謝しつつ。