何と記事の題名をつけてよいのか、考えてしまいました。
毎日、ブラジルのお昼の全国のニュースで流れているのは、ヨーロッパの移民問題。
今日は閉鎖されていたブダペストの駅が再び開かれ、移民たちが我先にと電車に乗り込む様子と、その後、すぐに彼らがバスに移され、収容所に移送される様子が移されました。
電車に乗り込んだ父親が、外にいた女の子の赤ちゃんを無理やり電車の中に引っ張り込む様子。
電車に乗れずにバスで移送されると知って嘆く母親と赤ちゃんを、父親が抱きかかえて線路に横になり「このまま死んでやる」と叫ぶ様子。
「第2次世界大戦後の混乱をほうふつとさせるような光景だ」とリポーターは話していました。
その中でも最もショッキングだったのがこの映像。
ISによる混乱から逃れてきたシリアの家族。
トルコ沿岸からギリシャへボートで渡ろうとしましたが、海岸を離れて間もなく、高波で船長が船を操れなくなり海に飛び込みました。
コントロールする人を失ったボートは転覆。
家族は父親を残して全員死亡。
幼い3歳の男の子の遺体は出発したところからそれほど離れていない海岸にたどり着きました。
ヨーロッパでは移民の受け入れに関して、大きく意見が二つに分かれているとか。
人道的に見たら、戦乱のシリアから逃れてくる人たちを助けてあげたいというのはもっともなことでしょうが、それぞれの国が自国民の雇用や生活環境の安定を考えたら、やはり一度に多くの移民を受け入れるのは難しいことかと思います。
移民の国と言われるブラジルですが、最近ではハイチからの移民が問題になったことがあります。
現在でもたしか、国境の町の収容所で暮らしている移民の人たちが、サンパウロなどの大都会への移送を要求して話題になっていました。
昔の日本ほどではありませんが、やはり多くの異文化の人たちを社会全体で受け入れるためには、十分な準備と国民への説得が必要なのだろうと思います。
それでも、駅の混乱で泣き叫ぶ小さな子供や、何もわからぬまま死んでいかなくてはならない子供がいるということは、やはりどこかがおかしい、間違っている。
少なくとも、こうした、子供やお年寄りなど「守られるべきもの」に対して、どこかが手を差し伸べることはできないものでしょうか。
毎日、ブラジルのお昼の全国のニュースで流れているのは、ヨーロッパの移民問題。
今日は閉鎖されていたブダペストの駅が再び開かれ、移民たちが我先にと電車に乗り込む様子と、その後、すぐに彼らがバスに移され、収容所に移送される様子が移されました。
電車に乗り込んだ父親が、外にいた女の子の赤ちゃんを無理やり電車の中に引っ張り込む様子。
電車に乗れずにバスで移送されると知って嘆く母親と赤ちゃんを、父親が抱きかかえて線路に横になり「このまま死んでやる」と叫ぶ様子。
「第2次世界大戦後の混乱をほうふつとさせるような光景だ」とリポーターは話していました。
その中でも最もショッキングだったのがこの映像。
ISによる混乱から逃れてきたシリアの家族。
トルコ沿岸からギリシャへボートで渡ろうとしましたが、海岸を離れて間もなく、高波で船長が船を操れなくなり海に飛び込みました。
コントロールする人を失ったボートは転覆。
家族は父親を残して全員死亡。
幼い3歳の男の子の遺体は出発したところからそれほど離れていない海岸にたどり着きました。
ヨーロッパでは移民の受け入れに関して、大きく意見が二つに分かれているとか。
人道的に見たら、戦乱のシリアから逃れてくる人たちを助けてあげたいというのはもっともなことでしょうが、それぞれの国が自国民の雇用や生活環境の安定を考えたら、やはり一度に多くの移民を受け入れるのは難しいことかと思います。
移民の国と言われるブラジルですが、最近ではハイチからの移民が問題になったことがあります。
現在でもたしか、国境の町の収容所で暮らしている移民の人たちが、サンパウロなどの大都会への移送を要求して話題になっていました。
昔の日本ほどではありませんが、やはり多くの異文化の人たちを社会全体で受け入れるためには、十分な準備と国民への説得が必要なのだろうと思います。
それでも、駅の混乱で泣き叫ぶ小さな子供や、何もわからぬまま死んでいかなくてはならない子供がいるということは、やはりどこかがおかしい、間違っている。
少なくとも、こうした、子供やお年寄りなど「守られるべきもの」に対して、どこかが手を差し伸べることはできないものでしょうか。