ふむ道,小道,数多く

趣味いろいろ。2014/9に別ブログを合体したので、渾然一体となってしまいました(笑)

Three Rings for Hollywood(4)

2005-01-15 11:35:44 | Tolkien・映画
(3)を書いた時,あれっと思いましたが,ブアマンはアラゴルンとエオウィンを結婚させたんですね,ああ,確かにアルウェンは少女として描かれていたからね。

さて,今回はまとめです。実はここが1番おもしろかったかも。いつになるかわからない,などと言っておいて,朝起きたら一気にやってしまいました。全体的にとても難解な英語だったのですが,このまとめだけは,何故かとても読みやすかったんですよ。(笑)

今まで紹介した台本はトールキンのオリジナルな考えとどう適合するか? ジンマーマンはトールキンが指摘したように,表面的なアクションや魔法しか見ていないし,その話の深みについては一切認識していない。ブアマンの台本はやたら深すぎるのだが,それはブアマンのテーマであり,トールキンのではない。コンクリングとビーグルは求められた範囲内ではよくできているが,本当に原作に忠実な脚色かと言えば,それはちょっと短すぎる。PJはもっとたくさんの時間とリソースをかけているが,原作読者は,彼はまだまだトールキンのもっと深遠なテーマをちゃんと描いていないと思う。

時として,これらの台本の著者達は,トールキンの原作から提示される問題に対して同じ回答に辿りつく場合がある。話の始まりの説明については,観る側は,全く知らない世界に入らなくてはならず,しかもバックグラウンドは話を理解する為に必要不可欠なのだ。原作では,指輪の持つ歴史については最初の2つの本(FOTRの事を指してます)の中で少しずつ明かされ,読者は忍耐強く,あいまいさに耐えなくてはならない。しかしこの3つの台本は全て(ジャクソンも含め)オープニング・シーケンスでモルドールを見せて,様々な指輪の歴史についての話を,シャイアのシーンの前に流している。本の読者は前に読んだ所を読み返したり,いろいろ動いたりできるが,映画を観る人はこんな贅沢はできないので,話をきちんと組み立てる必要があるのだ。

(あっこれは,BBC版ラジオドラマでもそうでしたね。そう言えば,このレポートはBBC版ラジオドラマには触れていませんねえ。映画ではないからしょうがないのかなあ。)

ここで,誕生日パーティ後にビルボがガンダルフに渡すシーンを各台本がどう表しているかを紹介しよう。バクシ版は原作にかなり忠実で,ビルボが指輪を封筒に入れて封をすると,ガンダルフが彼がそれを落とした時にキャッチする。ブアマンは,ご想像通り彼のオリジナルで,ビルボはガンダルフの帽子にそれを落とす。しかしジンマーマンとジャクソンは,2人共,もうちょっと映画的に面白い事をしている - ビルボは指輪を床に落とし,ガンダルフはそれを拾う事を拒否,フロドがそれを拾うまで置いたままにしている。指輪の脅威をより明確にするだけでなく,ビルボが以前にゴラムの洞窟で指輪を拾った事を反映する効果を狙っているのだ。

(あららら,そういうことだったの。私今初めて知りました。はっはっはっ。)

おそらく最も興味深いのは,それぞれの台本の女性キャラクタの扱いだろう。ジンマーマンは彼女達の重要性を大きく落としている。ガラドリエルの「誘惑」(指輪,の事かな)は削除,アルウェンは結婚式のみ登場,エオウィンがアラゴルンに惹かれる話はない。ブアマンは彼の空想の世界で,ガラドリエルには強力に性的特色を附与し,エオウィンはアラゴルンの女剣士となり,アルウェンはこの世ならぬ少女とした。コンクリング-ビーグル台本では,映画版が出来た時には,やはり女性キャラクタの役割は小さくされ,アルウェンは登場せず,エオウィンはエドラスではセリフがなく,ガラドリエルの「誘惑」はよいが,贈り物のシーンはなかった。ジャクソンの1つの強みは,いくつかの非常に大事なシーンがSEEでしか観れないとはいえ,トールキンの女性キャラクタの強い役割を残した事だ。ただ彼が彼女達の役割をちょっと膨らませすぎると感じる人もいるだろう,とりわけアルウェンを女戦士に作り上げた事に関しては。
それぞれの台本は時間的な制限があり,いくらかのキャラクタや出来事は削除しなくてはならなかったが,ある人達は女性キャラクタの役割は重要でないと感じ,ある人達は彼女達の役割を膨らませる事でより多くの視聴者を得られると思ったのだ。

さて,何がトールキンの本を完璧に映画化する為の解決策になるか。20時間のミニシリーズなら彼の話の全てのニュアンスを伝えるのに十分だろうか? それとも原作ファンはまだがっかりするだろうか? 原作ファンは,いつかは,映画制作者が,トールキンの独特の世界,セリフ,オリジナルの話を十分尊重し,さらに単なる文学として描かれたものを,超大作映画に相応しいシーンに作り上げた映画を観る日を夢見ているかもしれない。しかしそれはおそらく不可能だろうし,望まれてもいないだろう。トールキンは,映画は決して本のニュアンスを完全に表現できるものではないと語ったが,それは正しいかもしれない。結局,原作ファンの頭の中で上映されているのが,その原作ファンの1番観たい映画という事なのだ。

(はあっ,そうまとめられましたか。)

なるほど,確かに,女性の描き方は,確かにPJに比べて他の3人はちょっとひどそうですよね。実際にPJ版の台本を描いたのは2人の女性 - PB/FWですからね。私いつも悪口を言ってますが(汗),女性についてはよかったかもしれません。

逆流○○○

2005-01-15 09:35:33 | ハリポタ全般・J.K.Rowling
昨日,Blogネタを職場に置いてきてしまったので,OOP CD話が書けませんが,その隙に雑談などを‥‥。

現在CDで聴いている,"Chapter 7: The Ministry of Magic"には,例の「逆流トイレ」事件が登場しますが,「逆流トイレ」と言えば,シアトルの「アンダーグラウンドツアー」です。(笑)



開拓時代のシアトルは,干潟を簡単に埋め立てた街でしたが,潮の干満の差が激しくて,満潮の時には下水が逆流,干潮の時には水が出ない,という現象に悩まされ,ある時,大火事が起きて,ついに人々は,建物の1階を残したまま地面を高くしてしまったのでした‥‥というのがアンダーグラウンドの世界ができてしまった簡単ないきさつです。

しかし,近年,地下に忘れ去られた1階の世界を観光客に見せてみよう,と思い立った人がいて,そうしてできたのがこのツアーだそうです。

公式HPはこちら
え?英語で読めない? こちらに日本語で簡単に紹介されたものがあります。

ガイドさんはお話上手ですが,ネイティブスピーカーでないとわからない冗談を交えての案内なので,NOVAはレベル3の私でもちょっと~~(汗)でしたが,運がよければ日本語のガイドを行う時もあるそうです。でも英語はわからなくても見る価値はありますので,シアトルへ旅行のさいは,おすすめスポットです。

写真左のものは実際地下にあった物。朽ち果ててはいますが,タンクが上にあるため,デザインはすっきりしていて悪くないですね。右はツアーの最後に到着する博物館にあった物ですが,大変おしゃれなトイレです。


やっぱり「究極版」と「NG集」は

2005-01-15 03:00:40 | Tolkien・映画
ROTK SEEの話じゃないんですが,ちょっとネタがかかっているので,こちらのカテゴリーに入れておきますね。
どうやらPJは,(どういう形はさだかではありませんが)「究極版」と「NG集」をいずれ出す気でいるようですよ。よかったですね。2~3年後だそうですが,とりあえず,2~3年後なら,まだPJ映画に興味持っているだろう‥‥。

Three Rings for Hollywood(3)

2005-01-15 02:32:00 | Tolkien・映画
今日,と言うより,昨日また,感想を書いたファイルを会社に置いてきてしまったので,またこのシリーズに挑戦しました。今日は,PJの前に唯一映画化に漕ぎ着けた,バクシ版台本の話です。

ビーグル

1976年,ソール・ゼインツ社はホビットの冒険と指輪物語のの映画化と舞台化の権利を買った。バクシはブアマンのプロジェクトの話を聞いた時,UA社に近づき,彼らに実写よりアニメにすべきだと話した。彼はブアマンの台本を使いたくはなかった。彼の反応は「何故あなたがたはがトールキンの書いた物に異物を混入させたがるんだ?」というものだった。彼は,MGMをくどいて,ブアマンの決して使われない脚本にお金を支払った上で,UAを買収させたと語っている。そして彼のMGMのプロデューサーが首になった時,ソール・ゼインツとUAを買い戻している。

バクシ版指輪物語は,多くのトールキンファンに非難されている。まず,彼の"rotoscoping"(実際の俳優の上に絵を描くアニメ手法)を非難した。しかしバクシはトールキンのキャラクタの精神や原作の会話に忠実と賞賛する人も多くいる。またPJと彼のクルーはバクシ版から幾つかのシーンを取っている。バクシが使った台本を改めて見るのは教訓になる。

もしバクシがクリス・コンクリングの最初のドラフトを使っていたら,全く違う映画になっていただろう。このドラフトは,オリジナルからの剥離と元の素材に対する無頓着さで,ジンマーマンに匹敵する。これは話の多くの部分がフラッシュバックで,メリーが木の鬚を中つ国の為に戦うよう説得した若いホビットとして語り手になっている。この台本で本当に気掛かりなのは,ライターがトールキンの言葉を殆ど使ってなく,全ての会話を,最悪の大衆ペーパーバックのファンタジーにあるようなありきたりなレベルまで,簡素化している事だ。ここにガラドリエルのスピーチの抜粋がある。

Sam, come here. You' ve wanted to see some elf magic long enough. I have some for you. … The mirror confuses past and future, Sam, all this has not happened yet…. You see, I have long wondered what I might do if I should ever get the ring.

トールキンのオリジナルな文章はこちら。
”For many long years I have pondered what I might do, should the Great Ring come into my hands, and behold! it was brought within my grasp”

他のキャラクタについては,さらによくない。サルマンはセオデンを,軍を集めて闇のサイドにそそのかすよりも寝かせておくうそつきよりよりもっと罪深い,と言って口説こうとする。

しかしこの下書きには,なんとか最終の台本として使える,映画としては効果的な所もいくつかある。例えばフロドの踊る子馬亭 での歌は,メリーが黒の乗り手に出くわす所と交差し,観客はアラゴルンとホビット達が攻撃されるまでの間に部屋を変えたことに気が付かない。後でサムがフロドにモルドールに連れて行くよう説得している時,彼らは議論している間に反対の方向に漕ぎ出してしまう。原作では描かれてないものが,原作の雰囲気を壊す事なくうまい手法で場面を強化するのに使われているのだ。

バクシとゼインツが(クリス・コンクリングの)最初のドラフトを見た後,ファンタジー作家ピーター・ビーグルが書き直しの為に呼ばれた。ビーグルはすぐに,待ちに待ったパーティーに直接落ち込むフラッシュバックを削除して,それを改善した。ビーグルは明らかにトールキンの仕事を理解する事に大きな愛着を持っていて,コンクリングの会話を殆どトールキンのオリジナルな言葉に置き換えた。しかしその結果はまだ長過ぎて雑な所があった。3番目のドラフトは,指輪の歴史について述べるオープニングを追加したが,他の部分を切り詰めた。この為ガラドリエルの贈り物のシーンは落ちてしまい,アルウェンだけでなく,アラゴルンとエオウィンのやり取りも削除されてしまった。

この台本も問題なしというわけではなかった。サルマンは"Aruman"という名前に変えられ,サウロンと区別し易くした。話を割愛した為に幾つかの穴があり,しまいには,原作に詳しい人は,ビーグルは追い込まれたな,と思う事になるだろう。例えば贈り物のシーンがなくて,どうやってサムはガラドリエルの玻璃瓶なしにシェロブに勝つか? ファラミアもアルウェンも登場しないとなれば,エオウィンはどうすればいいのか? 彼らはブアマンがしたように,アラゴルンと結婚させるのか?

3番目のドラフトと最終フィルムには大きな変更がある。ドラフトは,ゴラムの贖いの場面(“Where were you?” ”Sneaking”)からヘルム峡谷の戦いに続き,ゴラムがフロドとサムをシェロブの棲家へ案内するシーンで終わる。しかし映画は2つのゴラムのシーンを同時に映し,戦いのシーンで終わっている。テスト撮影で,映画はヘルム峡谷の勝利を使って,もっとドラマティックな雰囲気にしなくてはならないとわかった。そうして作られた映画は,商業的にも批評的にも,バクシにとっては,第二作を作れるほどの成功を収めなかった。

前の2つより問題が少なそう? でも大将いなきゃいや~んです。(^^;)
ところで,この頃電車などで「キングアーサー」のDVD発売の広告をよく見ますが,でも私は,この前話題に出たブアマンの,「エクスカリバー」をちょっと観てみたくなりましたよ。(笑)
さて,次は,またいつになるかわかりませんが,シリーズ最終回,「まとめ」です。

Run!Run!Run!