憧憬、大艦巨砲主義w

盆栽RF900R 営農機セロー250 奥様号レブル250

こっち側(完成版)。

2010-10-21 22:24:37 | 機体と人命を尊重する
どうも通しで読まないとナニを言ってるのかワカラナイので、再度重複部分も掲載いたします。
ま、書いた本人しかヨクわからないであろう、放屁な駄文なんですが。




神奈川から帰葉いたしましてココ一年位でしょうか、イロイロと思うトコロがアレしてきたかな、なぁんて思っていたんです。
書くタイミングというか、そういうのもありまして。

神奈川に1年いて、家庭や仕事のコトは別として、最大の出来事ってば、やっぱり事故なんです。
結果としては、別段の大ケガもなく、バイクがダメになっちゃった、そんな程度だったのですが。
ですが。
モノの見方は大きく変わったのです。
ええ。
オレ自身のモノの見方ではなく、周りのオレに対する見方が、です。
ソレによって、自分の価値観も影響をうけつつあるのかしら、なんて思ったりしまして。

バイクの絡む部分でのオレの人生には、大なり小なりいくつもの前提というか、不朽の部分があります。
機体と人命を尊重する、というテーゼの各項は端折りますが、問題はそのアンチテーゼのほうです。
たとえば、遵法という社会のルールはあるけれど、100%のソレは誰にとっても味気ないし、遵法という行為自体が誰にとっても斟酌の対象だというコト。
たとえば、自己責任な運転行為であっても、公道上では無責任な利害関係者によって責任を追及されるというコト。
たとえば、ステイクホルダー達にとっては、速度と危険は比例しても、そうでない者も路上には散見されるというコト。
たとえば、全く落ち度がなくても、与条件に不備がなくても、被害者もしくは受傷者になりうるというコト。
そして、安全や遵法とは全く別の高度な次元で、ソレらにそぐわない価値観がオレの中にも実在するというコト。

このテーゼとアンチテーゼのせめぎ合いに揉まれるコトを承知で、オレは、バイクというどうでもいいようなモノに傾倒しているのです。
そして、そういう考え方をしているかどうかは別として、オレから見れば、ライダーなんてのは誰もがこの揉まれの中で生きてるのだと思うのです。



とはいっても、現実に路上に出て、用もないのにバイクに乗るのです。
明確な結論というのはないんでしょうけど、折り合いというか現実の乗り方が存在しているワケで。
オレ的にソコにあっては、好き勝手にやっている、という要素は半分以下な印象です。

んで。
オレの持論というか主義というかタガというか、「疾い遅いを論ずるコトは、個々の価値観を論ずると同義」というのがあります。
だってだって、先段のテーゼとアンチテーゼの間で揉まれて、その折り合いに現実の速度があるとすれば、ソレは全くの任意であるべきなのです。
全くもって個々の持ちうる価値観に等しい事情であって、ソレは論ずる対象ではなく、尊重されて然るべきでしょう。

そして、安全というか事故抑止というか、そういうものに対するライダー個々のありようも、この話の延長線上にあると思うのです。
あくまで、バイクに乗る、公道上のオハナシですよん。

社会はそんな人々の住むパラダイスではありません。
事故防止がオシゴト給料の官憲はともかくとしても、勤務先、同僚、ご近所、親戚あれこれ、友人、知り合い、そして嘆かわしくも同属性であるはずのライダーまでもが、自分の価値観と相容れない者を批判したがります。
ややや。
こういう批判を述べる権利があるのは、受傷者被害者本人・加害者本人か愛情あるその家族だけですよ。
ステイクホルダー(利害関係者)ヅラして、無責任な批判や勝手な意見を述べる者達を見かけると、心底うんざりするのです。
彼らは当事者にも、交通社会全般という超広義な枠組みで見たって限りなく無関係に近い他人なのですから。
一構成員であることは、もはやステイクホルダーであるとは言えません。
だって、遵法という指標そのものが個々の斟酌でどうにだってそのありようを変えてしまうのですから。



はて、自分自身も含めてですが、ライダーはどうでしょう?
同情憐憫というヒトを卑下したアレを排除したとしても、操縦技術や思考や感覚を理解できてしまうだけに、本人が求めないのに、アドバイスだったり意見だったり。
価値観の変化を、当事者当人が求めて模索している手助けなんて、責任伴ってできる自分なんぞ、はて、存在するんでしょうか??
おこがましい、全くおこがましい、と思うのです。
誰であれ、責任なんて持てるワケねーし(笑)。
煩悶の真っただ中にいるのは本人ですし、時間的経済的利益を逸失して苦しんでいるのも本人なんですから。
愛情ある家族以外にコレを補佐できうる存在を、オレは知りません。
他のライダーにできるコトは、いくらもありません。
そもそも、オレ自身だって、身を持って経験しないと思い知ることができない人間なんですから。

オレにできるコトは、当事者の今までのありようを尊重し、祈るくらいです。
それは、オレが当事者である可能性を見こして、心配されるのがつらい、そういう弱さの反作用、だけなのかもしれませんが。

話は初段に絡んでまいります。
神奈川での事故によって、周りはオレを心配するようになりました。
オレを愛する者たちにとっては、当たり前に存在したオレが、ワリとたやすく失われる可能性を示唆する出来事だったのです。
そしてソレが現実のものになったトキ、その現実を担保するナニかは、仮定の受傷者・被害者であるオレに対し、今現在のオレができうるコト程度しか成り立たないハズなのです。
ナニができるのか。
オレにできるコトは、当事者の今までのありようを尊重し、祈るくらいなのです。

つまりは、無力である、というコトです。
言葉ヅラは理解していたコトなのですが、オレにとって受傷者・被害者という立場は、現実に遠すぎていたようです。



とはいったものの、この現実は、実は解決すべき喫緊の課題でもあります。
劣化が顕著な身体能力、感覚、洞察力、情報収集・分析能力、そして意思のチカラ。
今現在の感覚として、これらが昨年の事故に無関係であったとは、到底思えないのです。

根本的な解決策は、ありますとも、言わずもがなです(笑)。
でも、そんなの、ありえねぇですよ。
オレはこっち側に、ナニが何でも、永遠に残りたいんです。


自分に嘘のない、等身大のオレがオレの中で模索する、オレのバイク乗りとしてのありよう。
今は、残念ながらも理解できちゃうんです、魅入られた魂の転がる方向というものが。
理解できちゃうんですが、抗ったっていいじゃないですか。
オレは、こっち側にしか、いたくないのだから(笑)。
コメント (2)
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