午前中に予定の30分前に病院へ行ったら、お客もなくすぐ診てくれて、助かった。明日も来てくれ、と言われたので、「えー」と言ったら「明後日でも良い」と言われた。怪我はその程度です。
11時前に家を出て、今日は藤林城跡見物が目的。まずは安楽越え。インナーで21分少々。暑いくらいだが良い気候だ。途中でアンパンを食べたが12時を回って腹がすいてくる。油日神社を過ぎた交差を右折して、油日駅方向へ。駅前の通りに店でもないかと、キョロキョロ見回すが、シャッターの降りた食料品店が1軒だけ。仕方なくそのまま西へ。旨い中華そば屋があるのだが、祝日はお休み。さらに隣町(甲賀)まで。ここのスーパーでお寿司を買って、店の前の休息所でいただくこととした。
少し戻って県道51号で東湯舟へ。
東湯舟には百地、服部と並び、伊賀の3上忍と言われた、藤林長門守の城跡がある。モクモクや山のたまごへ行く時に通過する、小高い丘の上の集落。以前から、どうして丘の上に集落があるのか不思議であった。通常は飲み水(湧水)の関係から丘の麓に集落はできる。水の不便な丘の上には住まないのだが、と。このあたりは忍者集落だった?などと勝手な想像をめぐらす。
藤林城跡は一段と小高い所にあった。県道から少し北側に登って入る。城跡の北側には水田が広がる。さらに東湯舟(東出)と栢の木と県境をはさんで集落がある。藤林は伊賀甲賀に影響力があったというが、この地勢からは当然と思われた。近くの正覚寺には大正の初めに城跡から移された藤林長門守の墓石などがある(写真左手の大きな墓石)。長門守については、信長の伊賀攻めの時織田方に内通して生き残ったとも言われているが、その生涯は書物に残っておらず、謎である
服部半蔵一族の藤堂藩上野城代家老服部采女は、紀州に隠れていた百地丹波の子に藤林家を継がせ再興させたとある。彼は藤林佐武次保武と名乗り、忍術秘伝書「萬川集海」を著した。その中に「人知ることなくして巧者なるを上忍」となすとあるという。藤林こそまさに上忍であったと言えるのではないか・・・。また、家老采女も百地の子に藤林を継がせるなど、伊賀の人心を治める良い方法をとったものだ。
さて、これで、伊賀忍術の里を訪ねるシリーズは終了。 走行97km。
11時前に家を出て、今日は藤林城跡見物が目的。まずは安楽越え。インナーで21分少々。暑いくらいだが良い気候だ。途中でアンパンを食べたが12時を回って腹がすいてくる。油日神社を過ぎた交差を右折して、油日駅方向へ。駅前の通りに店でもないかと、キョロキョロ見回すが、シャッターの降りた食料品店が1軒だけ。仕方なくそのまま西へ。旨い中華そば屋があるのだが、祝日はお休み。さらに隣町(甲賀)まで。ここのスーパーでお寿司を買って、店の前の休息所でいただくこととした。
少し戻って県道51号で東湯舟へ。
東湯舟には百地、服部と並び、伊賀の3上忍と言われた、藤林長門守の城跡がある。モクモクや山のたまごへ行く時に通過する、小高い丘の上の集落。以前から、どうして丘の上に集落があるのか不思議であった。通常は飲み水(湧水)の関係から丘の麓に集落はできる。水の不便な丘の上には住まないのだが、と。このあたりは忍者集落だった?などと勝手な想像をめぐらす。
藤林城跡は一段と小高い所にあった。県道から少し北側に登って入る。城跡の北側には水田が広がる。さらに東湯舟(東出)と栢の木と県境をはさんで集落がある。藤林は伊賀甲賀に影響力があったというが、この地勢からは当然と思われた。近くの正覚寺には大正の初めに城跡から移された藤林長門守の墓石などがある(写真左手の大きな墓石)。長門守については、信長の伊賀攻めの時織田方に内通して生き残ったとも言われているが、その生涯は書物に残っておらず、謎である
服部半蔵一族の藤堂藩上野城代家老服部采女は、紀州に隠れていた百地丹波の子に藤林家を継がせ再興させたとある。彼は藤林佐武次保武と名乗り、忍術秘伝書「萬川集海」を著した。その中に「人知ることなくして巧者なるを上忍」となすとあるという。藤林こそまさに上忍であったと言えるのではないか・・・。また、家老采女も百地の子に藤林を継がせるなど、伊賀の人心を治める良い方法をとったものだ。
さて、これで、伊賀忍術の里を訪ねるシリーズは終了。 走行97km。