大晦日、一年を振り返る。
昨年暮れに脊柱管狭窄症が発症し、正月からリハ走の連続だった。もともと姿勢の悪さで背骨が曲がっているが、加齢で椎間板の間が狭くなったこと、腹筋が弱くなって、背筋との釣り合いが取れなくなったことが原因と想像する。腹筋を週に何度かやるようになって、2分で45回しかできなかったのが85~90回はできるようになった。ランニングで左脚の着地を意識するようになってから左脚の違和感も感じなくなってきている。弁膜症は少しづつは進行しているようだし、負荷はなるべく避けるようにはしている。でも自転車走行は5千kmを超えている。乗れば追い込んだりするのを控えめにすればよいかと思うのだけれど。「あの坂を〇kmで越える」などと思ってしまうのは習癖だな。
美術で今年の忘れられないのは愛知トリエンナーレの例の問題。
音楽、文学、美術工芸等々、芸術は、中世では、権力者、聖職者のものであった。自己の正統性の装飾物としてあったものだ。経済の発達により市民社会にも普及するようになるが、もともと政治性を帯びるという側面がある。戦争中は言うに及ばすだ。芸術には結果的に権力・権威を補完するものとそうでないもの(関係ないもの)とがあるのは理解しておく必要がある。
また、芸術は表現であり、コミュニケーションツールでもある。ただ、100人のうち8割が同感するか、5%しか同感しないかは、その価値を決めることではない。絵画で印象派が出てきたときは多くの批評家はこき下ろした。洋行帰りの黒田清輝が裸婦像を出展したときには幕で隠された。自分としては「慰安婦の像」(写真)が芸術的に優れているとはあんまり思わないが(隣の椅子に観覧者が座ることが意図されおりその意味では発想が良いと思うが)、展示は自由であるべきだ。もともと展示拒否されたものを集めるという「不自由展」なので、それを展示して、考えてもらうという趣旨は英断でおおいに賛同するが。撤去騒ぎなど、こういうことが「踏み絵」になるようでは、不自由な社会になっていく。表現は自由だ。権力・権威に程遠い、年金暮らしの貧乏庶民にはせめて精神の自由は最後の砦なのである。などと、思いながらの年の暮れ。