先週、NHKBSのヒューマニエンスという番組の再放送で「走る」をテーマとしてやっていた。
人類は180万年前頃から木から降りて、走る必要があり、踵が発達し、効率よく走れるようになり、獲物からたんぱく質も接種し、脳が大きくなった。走る事により海馬が発達するという。しかも、ゆっくり走るか、インターバルが良いという。ということで、昨日もジョギング、3㎞強だけど。
で、今日は1週間ぶりのサイクリング。慣れぬジョギングで大腿の一部が筋肉痛。これをほぐそうと、9時に家をでて、伊賀越えでも、と思っていたが、西の方角、鎌が岳を見ると雪の景色が綺麗だ。これは絵の参考になるのでは、と500mほど走っていたが、Uターン、家に戻りカメラを替えて、再度、椿方面へ行く事に。
予定を変更したので、出鼻くじかれた感もあるが、こういう時は気分転換。いつも帰路に使っている道を逆に走ってみると、初めてだし新鮮だ。
水沢への林間の登り道も2~4%の鈴鹿の山へのアプローチと言った感じで初めて登りを経験したが、中々良い。
椿、大久保の現場はこんな感じで(写真)、そう変わりがあるわけではなかったが、参考となるところもあった。
帰途は、東海自然歩道の太陽光発電所建設現場の横の道を下って、西庄内へ。八島川沿いに下って、井田川経由中勢BP。走行59㎞
ジョギングと異なり、自転車は体重がかからないので踵に刺激もなく、海馬は大きくならないのだろうか・・・ペダルを踏みながら、ここら辺を検証して欲しい、と思った。「海馬」は気になる・・・。
寒い日が続く。鈴鹿の山に雪が降ると、絵の参考にならないかと、先週の火曜以降も車で2回ほど写真撮影に行った。そんな事をしていることもあり、自転車はお休み状態。
老人になると、体温が下がる。若い頃は全く知らなかったが、こういう状態になって、調べてみると、加齢とともに生理機能が衰える。体温計のテルモのHPを見ると、体温は0.2度以上低くなる。
コロナで体温を測ることが多くなったが、自分も35度台が多く、えらい低いな、と思っていたがこういう事だった。30歳を100とすると、70歳で肺活量は6割を切り、心臓機能も7割を切る。基礎代謝は8割前半に落ち、神経機能も9割を切る。熱中症になったり、寒さに弱くなるはずだ。
寒さをカバーするには、着込む、温かくなる物を飲む(食べる)、運動するの3つ。
ということで、今日は午後4時まで絵を描いていたが、帰宅後、今季初めてのジョギング。3km強を24分かけて、ゆっくり、というかこれでしか走れない。
少しでも、走れば、温かくなり、気分も快調。寒い時は、これですネ。
四日市文化会館小展示室で、自分が属する絵画サークルの女性2人とその知人1人の女性3人の展示会(Mi*RAKU展)があり(18~20日まで)サイクリング兼ねて観に行くことに。
前日、雪が降ったので、鎌が岳の雪景色も見たいと思い、10時に家を出て、まずは椿、大久保町まで。西風が思いのほかあって、中々進まない。雪は思ったほど麓には降っておらず、山も少しは多いかな、と言う程度(写真)。まぁ、それでも昼には融けるであろうから、午前中に来たかいがあった。
ここからは、小さな道は、路肩に雪が残って路面が濡れているし、なるべく大きな道を通ろうと、県道で西山、小林町と走って、四郷高校まで降りてきてしまった。若干遠回りになるが、川島まで県道で出て、鹿化川沿いのサイクリングに良さげな道を通る。実は「三重の寒梅」を作っている丸彦酒蔵へ寄ってみようと。次回、飲んでみようかなと思っているので(酒蔵を知っているほうが親近感があるから)。一応覗いて見ただけだが酒蔵訪問、県内14か所目かな。
酒は買わなかったが、次は松本駅前のパン屋「シド」。このために小デイバッグを背負ってきた。2日分買って、文化会館で絵の鑑賞へ。
絵の方は作者と知りあいなので、色々お話しながら楽しく見て、帰宅の途へ。帰途は赤堀から旧東海道をポタリング。3Kさんでクリートを買って帰宅。シマノのクリート紙箱包装になっていた。環境保護ですって。(シマノさんにお願い。環境保護なら、「ネジなし」「ネジだけ」で売ってほしい。20年も使っているとネジが貯まる。まだまだ使えるネジでっせ!)走行63㎞。
2月の牡蠣は身が大きくなって旨い。山の神が紀北町白石湖の牡蠣を取り寄せて、12日から毎日、牡蠣三昧だった。最初は、生と牡蠣フライ。次の日は牡蠣鍋、最後は牡蠣グラタン。
26年前に亡くなった親父は牡蠣が好物だった。しかし子どもの頃は自分は嫌いだった。あの生ぐさい独特の匂いと食感で、喉を通らなかった。家で牡蠣の日は自分は別メニューの日々だった。
牡蠣フライが食べられるようになったのは、就職してからではないか、と思う。それでも酢牡蠣や生牡蠣は食べることができなかった。
結婚して、山の神の地元地域である白石湖の牡蠣に出会ってから、牡蠣フライが大好物となり、生も苦にせず口に入るようになった。白石湖の牡蠣様様である。
白石湖は汽水湖でそのため独特の匂いがあまりなく、食べやすい。養殖業者は6,7軒で周囲7㎞ほどの小さな池なので、流通量も少なく、地元以外は取り寄せるしかない。直接行っても買えないことが多く、予約が必要である。
親父が肝がんが悪化して入院し、12月下旬、他界する5日ほど前に白石湖の生牡蠣を持っていったら、10個以上、『旨い、旨い』と言って平らげた時の嬉しそうな表情は忘れられない。
昨日は絵のサークルの日で、今回描こうとしている鈴鹿7マウンテンの一つ「鎌が岳」についてアドバイスを頂く。
写真は1週間前の姿。空気も澄んで、山の姿が綺麗に見える。場所は大久保町。道の位置とか、このまま描くわけではないが、先週は3日続けて現地ロケハンしたが、いざ描こうと思うと、絵の構成上、色々確認しておきたいこともあり(見たまま描くわけでもないので)今日はサイクリング兼ねて再度見に行くことに。
天気はそれほど良くはないが、細部の確認であるので問題なし。椿神社から5分の現地へ。見えないところも(裏側も)知っているのと知らないのとでは描きぶりに違いがあると思っている。ひと渡り絵の材料を確認して、水沢~西山~和無田のいつものコースで昼に帰宅。走行53㎞。
天気も良くないので、絵の作業と古文書解読。親父の残した段ボール箱には「古本」も何冊か入っていて色々珍本もあったのでご紹介。
歴史に興味がない人にはつまらないが、この手書きの本(写真)は見出しの表題が書かれている。
「朝鮮信使」とは江戸時代、徳川将軍の交替時期に朝鮮国王の使いとして「信(よしみ)」を遣わす使節団で4~500人が12回来ていた。「朝鮮通信使」と呼ばれている。この際に国内でも大変な準備と対応がされていた訳である。大阪からは陸路の行列で、三重県にも「唐人踊り」としてその有様が伝わる。(通信使はユネスコ、記憶の遺産に登録されている)
で、この文書は文化8年時(1811年)で、これが最後の通信使となった。また、本来、江戸であったが、この時はお互いの財政厳しき折、ということで対馬に会場を移して行われた。
この文書は48ページで4つの場面に応じた礼式が記載されている。接遇マニュアルのような内部文書。その最後に、対応人員一覧と将軍から朝鮮王に送られる品一覧(屏風9双)が記載されている。この写真は日本側対応人員欄の最初のページ(左側:「文化8未夏朝鮮信使に付対州下向」と題されている)。
8人の名前が記載されている。トップは上使 小倉藩藩主小笠原大膳(忠固)その下は差(介)添 脇阪(竜野藩主)、林大学、大目付井上、勘定奉行柳生、吟味役松山、同佐野肥後守、同遠山左衛門尉とある。「金さん」の遠山はこの時18歳独身で家督500石を継いでいないので、これは父親の方。この3年後4200石取り旗本の娘と結婚し、その後、北町、南町奉行となる。 (小倉藩も竜野藩も通信使の通過地点で経験豊富)
ここに書いてある8人に付く供の数を数えると2576人になる。随行者はまだまだいるので、これが対馬まで行ったのかいな?とも思うが。江戸を出た隊列は、六郷川過ぎれば5分の1ぐらいになったのでは、などと貧乏人は邪推する。
なぜ、こんな本が伝わっているのかを考えたが、随行者(供)の中には尾張藩士も手伝いに行っていて、このマニュアル本を使っていたが、維新後の窮乏の中で売りに出した品々に混ざっていて、我が先祖が手に入れたのではないかと想像している。
しかし読むのは難しい。コロナで古文書読解の講座が休止状態。開催されるようになったら参加しようと思っている。教えてもらえるのがなによりだ。
ワクチン接種やら色々あって、1週間ぶりのライド。今日は今まで行ったことのない道を乗ってみようと田舎道探索、ポタリング。
安知本・楠平尾の旧道を通って、椋本へ。椋本から県道を渡って北垣内へ抜ける道をコースミスして、真っすぐ行ってしまい、県道で交差点まで戻り右折する。ため池沿いを走って、北垣内を抜け、雲林院小学校(休校中)前まで。ここから標高差70mほど登った所が南山地区なのだが所々急勾配。南山はその名の通り南側が山で、北向きに開けている(写真)
ここから小野平に抜ける山道を通って、県道28号へ出る。県道28号を少し走って草生から平尾へ登るのは県道でなく、県道の北側から回り込むような、細い急勾配の道で登ってみる。登り初めに「鯖大師」の看板がある。四国巡礼の札所にあるような塩鯖を持った大師像があるようだ。15~20%のZ坂を登ると県道28号の登り終わりの所に出会う。県道の方も急勾配だが、飽き足らない方は試してみてください。
いつもはこのまま県道28号で南下するが、今日はここから東へ、今徳まで下ってみる。初めての道だがグリーンと県道28号を結ぶ道はなかなか勾配が強い。今徳から、更に走って、久しぶりに川喜田半泥子ゆかりの廣永窯の前まで行ってみる。(見学は予約が必要)趣のある門の前でUターンして、広永、浄土寺、曽根から北上、内多、窪田、あの津台を経て、中勢BPで帰宅。走行61㎞
いつもは、この先どうなっているのだろうと思いながら通過してしまう道を、寄り道してみるのも興味深い。
一昨日打った3回目のコロナワクチン、朝の内は、次の絵は、雪の残る鈴鹿の山を描こうと椿方面へ写真とスケッチに出かけた後、ワクチンを打ちに行った。が、山は雲の中(写真)で見えず、スケッチもできず、次の日再挑戦。寝るまでは、このワクチンはさしたる反応は無いな・・・と思っていた。
ところが次の日の朝起きると、打った左肩が痛い。肩が痛いだけなので、予定通り、再度現場へ。現場は地面の雪が消え、少しがっかりだったが、山は晴れてきて良かった。
昼前、家に帰るころには、左肩の痛みに加え、体がだるくなる。検温すると、6度9分から7度3分の熱。熱が出たので、この日は夜まで静養。
今朝起きると、熱は引いたが、今度は、右の首から肩甲骨あたりに痛みが走る。それでも、昨日の構図に少し満足できない所もあり、山に雪のあるうちに行こうと、再々渡、現地へ行って、ロケハンをすます。やはり初めての現地は3度ぐらい行かないと、納得できないものだ。
ともあれ、この副反応と付き合いながら、なんとか絵の構想ができた感じ・・・。
今日は昼前に、行きつけの診療所で3回目のコロナワクチン(モデルナ)を打った。打った後、肩でなく左手首が少し鈍痛、と看護師に言ったら「今日はおとなしくしてください」と言われたので、午後は専ら、古文書解読。左手首の方は家に帰ったらなんとも無くなり、今のところ副反応もない。
先日は、天保5年の「家相占い」を載せたが、今日は奉公人請状。普通は、奉公人サイド、村役なども署名し作り、雇い主に出すものだが、この頃名古屋城下では個人ハローワークである「口入屋」が流行っていたようで、口入屋が紹介の度にその家の冊子に書き入れていたようだ。(写真)
この見開きは右手が「大阪屋」という口入屋の請状、左側が次のページまで続くが、「江戸屋」という口入屋の書いた請状の文章。
文化12年(1815年)で、この時、当主には女の子が生まれている。母親の乳の出が悪かったのであろう、「うば(乳母)奉公」と書かれ、1年間金3両と書かれている。同じ時期の男の奉公人は1年金2両なので、条件が良い。出身は中嶋郡前野村みと、とあるが、調べた所中嶋郡(今の一宮)には前野村はなさそう。また、名前も後の文章では「とみ」となっており、ちょっとあやしい。「もし欠落(逃げる)不奉公があれば金を返す」と言うような事もかかれているので、乳母の役目を果たせば出自不明瞭でも問題ないか?と。まさか、盗賊の仕込みで入ってきた、と思うのは「雲切仁左衛門」の見すぎか。この家には金は無いけどね。
昨日は母の3回忌法要だったので、天気は良かったが乗れず、明日からは冷たくなるとの事で、今日乗ることに。
といっても、ポタリングのようなもの。9時前に家を出て、まずは椿神社を目指す。
ところが、山に近づくにつれ、ポツポツと雨が当たる。山の方は入道から北は山頂が白い雲に隠れている。北の方は山麓近くまで雲が降りている。
椿までは行かないほうが得策だな、と9㎞ほどショートカットし、306号を北上、水沢茶屋町を通り過ぎてから、今日の目的地へと右折する。
今日は桜台を見下ろす高角へ抜ける山道を経由して、途中から川島台へ降りる軽トラ道を走ってみようと思っている。
乱飛へ降りる分岐を過ぎて、すぐ、右手に降りる小径がある。高々1㎞程度の短い道だが高低差があり、散歩道としては体力がいるだろうが、良い道だ。(写真)。
降りれば、いきなり団地の中へ。道は朝方降った雨の為か濡れている。鹿化川沿いの簡易舗装道を利用して、別所谷の方へ向かい、途中からゴルフ場へ抜ける道を利用して、ゴルフ場の横を通り内山町へあって。ここを南下して小林町、山田町と抜け、ミルク太陽化学の交差点で西を見れば、山は裾まで白い雲に覆われ、雨もパラパラ風に流され当たってくる。今日は田舎道三昧だった。
鈴鹿に戻れば、天気よく、暖か。走行46㎞
恵方巻を食べる。風水など中国占術では方位を二十四に分けているらしい。
先日、婆さん宅の遺品類を整理していて、古文書を発見。昭和37年の新聞紙が敷かれた箱に入っていた文書類の中に先祖の家相図があった。天保5年2月(1834年)に占ってもらったようで、方角線の入った3枚の家の平面図と占い結果の文書(写真)が出てきた。
まだ読解していないが、家内のあちこちの方角に吉と凶を判じ、吟味して対応すること、おろそかにすると災いがあると脅しているようだ。
実は、この時、若夫婦と子ども二人、妻の伯母(養子縁組の関係で法的には祖母)と一緒に暮らしており、恐らく、妻と祖母のが病気がちで大変な状態だったと想像している。妻は19歳で二人の幼児を残して、その年の9月に、祖母は10月に62歳で相次いで亡くなっている。(こうした事は、戦前に父等が過去帳などを調べた系図が残っており、借金等の文書の解読と併せ判明した。)
(実は悲劇は続き。天保8年には長男も他界、夫も天保9年に26歳で他界し、6歳長女が家督を継ぐこととなった。さすがに2年余りは他界した父の名で借金しているが、8歳からは店の代表として数百両の借用書や貸主からの400両の督促状が残っている←再借り入れで切り抜けている。)
4代前の先祖の時であるが、すがるような気持ちで家相を見てもらったのであろう。思いは、いかばかりであっただろうか、その後の試練とか想像もできなかったのではないかと・・・色々思う。
この頃、はやっているというタヌキケーキを山の神が買ってきた。津新町のコーノヤで、4匹も。
二日続けて食べることとなったが、ピンクのほうはホワイトチョコベースのタヌキ。この時節のバレンタインバージョン。山の神曰く、「これはバレンタインデーの先取り」。食べたいものを買ってきただけのような気がするが、バレンタインデーを先取り、なんてことで済まそうとの腹つづみ(鼓)、いや腹積もりか。
タヌキだけに化かされたような感じ。でも、両方とも、さすがショコラティエでもあるだけあって、旨いから言うことは無い。