天平時代は、律令国家、遣唐使、東大寺の大仏建立など唐の影響を大きく受けた時代。唐においては玄宗・粛宗の治世に当たるが、安史の乱によって律令国家体制に綻びが生じ始める時代でもある。少し前に『唐―東ユーラシアの大帝国 (中公新書)』を読んで、中国の大王朝である唐が「東ユーラシア」という大きな捉え方に相応しいハイブリッドでダイナミックな帝国であったことのイメージを持つことができたのだが、本著においても、唐からの影響を政治・外交・文化の様々な面で大きく受けた日本・新羅・渤海の東アジア三国をはじめ、北アジアの突厥やウイグル、中央アジアのソグド人、西アジアのイスラム世界を経て、ビザンツ、形成途上のヨーロッパ世界まで、広範なユーラシア世界における軍事的・政治的・経済的な相互影響が概観される。
日本・新羅・渤海の三国が、その時代における唐からの影響を受けながら、互いに距離を縮めたり遠ざけたりを繰り返す様からは、現代における日本・韓国・北朝鮮・中国の関係性にまで繋がる地政学的宿命を感じずにはいられない。
三国とも、国際情勢の不安定さの中で律令制を採り入れ、中国的な統治機構を実現するレベルに外形的には到達した750年代に、唐の側では安史の乱により政治的衰退が始まってしまう。それによって三国はそれぞれに形式的な受容の段階を超えて、新たにオリジナルな国制を模索し始めることになる。
日本においては、白村江の戦い(663年)での敗北による国家的危機が律令制国家の成立を促すこととなった。「天平」はそれが目指した政治体制の整備がピークに達する時代であったが、「天平」の二文字が年号から消え、白村江の敗戦から百年を超えると、危機と恐怖は歴史の彼方に去り、時代は新しいステージに進むことになる。
外交においても、白村江を知る世代である藤原不比等らの世代は、日本書紀で創り上げた「新羅の服属」というフィクションを方便として利用していたが、後続の世代では虚構の歴史を「史実」として定着させようとする。
こうした世代替わりによる歴史の風化も、今の時代にシンクロしてくる。
歴史の教科書で学んだ遣唐使についても、彼らがどれだけの苦労をして遥か遠い唐へと渡り、帰国したのか(海難により帰国できなかった例も少なくない)、そして唐の都・長安で如何なる体験をしたであろうかについても詳らかに語られる。留学者は個々には唐の知識人や宗教界の人々に接触して、任務である中国文化の摂取を進めたが、そこには現地の日本人コミュニティや渤海人・新羅人コミュニティとのネットワークも存在したであろうと推察されている。このあたりも、現代の海外赴任者に通ずるものが感じられ、より生き生きと海を渡った彼らの生き様に思いを馳せることができる。
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