自分はテレビの報道番組をほとんど視ないこともあり、社会面系のニュースには疎い。
いわゆる「足利事件」についても、一旦死刑判決を受けた菅家さんという人が冤罪確定して釈放された、というくらいの知識しか持ち合わせていなかった。
そして、菅家さんの無実をはらすにあたり、本書の著者・清水潔氏の取材に基づいた日本テレビのキャンペーン報道が大きな役割を果たしたことも寡聞にして全く知らなかった。
さらに、この「足利事件」が、渡良瀬川を挟んだ栃木県足利市と群馬県太田市にまたがる狭い地域において、1979年から96年までの間に発生した5件の未解決幼女殺害・行方不明事件の1つであり、菅家さんの冤罪が判明したことで連続幼女誘拐殺人事件の真犯人(同一犯人である可能性が推定される)が野放しになっていることを意味するという衝撃的な事実を、この本を読んで初めて認識することになったというのが正直なところ。
本書を読んで、感じたところを以下連ねてみたい。
まず第一には、犯罪の真相解明に占めるマスコミの役割。
本事件については、日テレのキャンペーン報道が冤罪確定に大きな役割を果たしたわけだけど、それは「日本を動かす」ことを目指したプロジェクトを企てた日テレのプロデューサーと、それに応じた清水氏のような腹の据わった、ある意味変わり者のジャーナリストが「たまたま」関わったからできたことだ。
一般的には、自分が忌み嫌う、センセーションと世間の溜飲を下げることを求めたマスコミの扇情により、警察・検察、場合によっては司法の判断が歪みをもたらされることも少なくない(本書の中でもそのようなエピソードがいくつも例示される)。
清水氏のような活動についても、菅家さんの件では、冤罪を明らかにするという「正義」に適う(と考えて間違いない)結果をもたらしたとはいえ、一方間違えれば逆に誤った結論に世論を誘導してしまうリスクを逃れることはできない(実際、本書の中で「飯塚事件」について書かれた部分についてはそのような批判が為されているようだ)。
月並みだけど、マスコミ報道はそれだけ大きな力を持っているということなのだ。
本件の清水氏のような「良心」に期待したいところではあるが、なかなか当てにはならない。
そう考えると、やはり一つの言説を鵜呑みにせず、いかに多様なソースからの情報を得られるような環境を作るか、ということが肝要になる。
自分のように、テレビなど大手メディアの報道をガン無視するという態度も、実は偏っているのかもしれない。
第二には、警察・検察のずさんな捜査、組織防衛の論理の恐ろしさ。
自白偏重捜査、人質司法の酷さについては、現在では広く知られ批判されるところになっているが、この「足利事件」、そしてそれに先立ち著者が真相を暴くために奮闘した「桶川事件」の経緯を知るにつれ、警察・検察の組織の論理にもとづく権力の暴走により、誰しもが犠牲者となり得るという可能性を改めて実感させられる。
そして、第一のマスコミの問題と第二の警察・検察の問題、両者は記者クラブ体制という枠組みを挟んで表裏一体のもの。
マスコミが迎合する「世論」の期待に応えんがために警察・検察は組織防衛に走り、その警察・検察がリークする都合のよい情報にマスコミサイドは依拠する、という相互依存。
著者・清水氏が記者クラブに属さない独立独歩のジャーナリストである、という事実の意味合いは重い。
最後に、一連の事件の犠牲者となった女児たちと同じ年頃の娘を持つ親の一人として、彼女たち、そして彼女らの肉親たちが受けた痛み、苦しみに思いを馳せるたびに胸が痛む。
著者がその正体を知るという「ルパン」が将来報いを受けることになったとしても、彼女たちは決して還ってこないのである。