日本のメディアでは、ベッキーがテレビ出演やCMを打ち切られ休業に追い込まれる一方、ゲス川谷が平然と音楽活動を継続できているのは均衡を逸しており、その背景には若い女性芸能人にモラルの完璧さを求める日本芸能界の性差別意識を反映しているのではないか、との趣旨と報じられている。
拙い英語力による読解になるが、原文を一読してみた。
確かに上述の趣旨の通りのことが書いてあるが、どっちかというと「何の芸がなくても、可愛らしさや純潔さだけが芸能人のブランド価値になってしまう日本社会って変じゃね?」というニュアンスに重きが置かれていて、ベッキーがほとんどタレント生命を奪われそうなほどの社会的制裁を受けている一方でゲス川谷がのうのうと音楽活動を続けていることの不均衡をもって「性差別」と言っているわけではないようである。
今回の騒動、客観的に見てベッキーはどちらかというと騙された被害者であり、騙したゲス川谷の方がまさに下衆、サイテーの酷い奴だというのが正しい見方ではないかと個人的には思っている。
が、そんなサイテーのゲス川谷が音楽活動を続けられているのは、音楽的才能という「芸」を彼が持っており、それが一定層に支持されている(自分にはゲスの音楽の良さはよく分からないが)からであり、他方ベッキーは「好感度」という価値以外に武器らしきものは何も持ち合わせておらず、その価値を毀損してしまえば芸能人としての存在価値がほぼゼロになってしまうというのは悲しくも厳しい現実なのである。
確かに、彼女の愛らしい容姿、聡明さ、話術の巧みさは類い稀なる才能だと思うが、残念ながらその程度の才能を持っている人材は芸能界にも、一般社会にもゴマンと存在しており、いくらでも代替が効いてしまうのだ。
ガーディアンのいう通り、「何の芸がなくても、可愛らしさや純潔さだけが芸能人のブランド価値になってしまう日本社会」は自分も変だと思うし、その背景に女性の社会的役割に対する差別意識が潜んでいるというのもその通りだと思うが、まあそれが日本社会の現実であり(だからそれでよいと言っているわけではない)、マーケットが成立してしまっているのも事実なのだ。
マーケットのニーズがある限り、「商品」としての女性アイドル・タレントは次から次へと登場するだろうが、どんなに人気が出て「一流」と呼ばれるようになったとしても、絶対的な武器になる「芸」が無い限りは、所詮いつ代替されてもおかしくないないコモディティにしか過ぎないという冷徹な現実がそこにはある。
ベッキーには、これを機会に、何か武器になる「芸」(女優としての演技でも、その他の技能でも何でもよい)を身につけてもらって、いつか復活してもらいたいものである。
赤線地帯 [DVD] | |
京マチ子,若尾文子,木暮実千代,三益愛子,沢村貞子 | |
角川書店 |
溝口健二監督の遺作『赤線地帯』、先日NHKBSで放送していたのを録画して観た。
正直、社会状況や価値観があまりに前時代すぎて今となっては物珍しく観るしかないのだが、「夢の里」の案外モダンな店の造りと奥行きを意識した宮川カメラの構図取り、京マチ子の捨て鉢なキャラ造形が印象深い。
それにしても三益愛子は痛々しすぎるだろ。
あの掃き溜め(失礼)に若尾文子がいて、それで場が成立するという強引な設定が清々しい。
しかし、こうして売春合法時代のリアルタイムな空気に触れてみると、従軍慰安婦問題を現代の価値観で断じることのナンセンスさを感じざるを得ない。
ベン・E・キングが亡くなった。
この人のことは『スタンド・バイ・ミー』以外ほとんど何も知らなかったが、まだ76歳だったそうだ。
正直、もっと上の世代だと勝手に思い込んでいた。
映画『スタンド・バイ・ミー』が公開されたのは1986年、日本での劇場公開は翌1987年。
自分が中二から中三になる春のことである。
映画自体を観たのはたぶん数年後、レンタルビデオが出てからだと思うが、劇場公開時に流れたCMで、"When the night..."で始まる掠れているが力強い印象的な歌声に魅了された。
すぐにレンタルレコードショップへ行って、ベン・E・キングの古いアルバムを借りた記憶がある。
その時初めて、ああずいぶん古い歌だったのだな、と認識したのだが、改めて調べてみると、キングが『スタンド・バイ・ミー』を歌ってヒットしたのは、映画に先立つこと25年の1961年。
ということはキングがまだ22~23歳の頃のことだったのだな。
考えてみれば、映画『スタンド・バイ・ミー』自体、中年になった主人公が少年時代の出来事を回顧するお話で、回想の舞台はおそらく1950年代の後半、30年くらい前を思い出している設定だ。
で、その映画が作られ、初めて観てから30年近くの時が経過し、当時中高生だった自分もこうして中年になり、当時を回顧しているのである。
こうして時は流れていくのだな。
久々に山田太一作品独特の台詞回しを堪能。
そして、長回し!
特に、渡辺謙と余貴美子の靴屋でのダイアログは10分以上ノーカットだったんじゃないかな。
テレビドラマであのクオリティを観られるのは貴重。
ここで「生きる」とは「誠実に生きる」ことである。何故誠実に生きなければならないか?人間の人生は有限だからだ。人生の有限性を否応にも実感させられる年齢にならなければこれは伝わらないだろう。その意味でR-40指定。
「あなたは生きて!」菜穂子は呼びかける。
「創造的人生の持ち時間は10年だ」カプローニは諭す。
直截的に人が死ぬ場面は描かれない。が、大震災では多くの生命が喪われただろうし、二郎の設計した戦闘機に乗った飛行機乗りはおそらく帰ってくることはない。そして、菜穂子の母も、菜穂子も。
「風が立つ、生きようと試みなければならない」「少年よ、風はまだ吹いているか?」
どうして風が吹いたから生きなければならないのか?風は無限、人生は有限。有限性の宿命から逃れることのできない人間も、風が吹いている間はその無限性に身を委ねることができる、ような気がするということ。
「珍しくも、宮崎が切ない大人の純愛を描いた作品とも云えるだろう。が、その純愛は多分に一方向である。二郎は菜穂子の愛に対してあくまでも受動的だ。」初回観賞時のreviewにはそう書いた。だが違った。二郎は「誠実に生きる」姿を見せることで菜穂子の愛に確かに応えていた。誠実に生きることは、時に残酷であり罪つくりだ。身勝手であり、けっして無害ではない。しかしそこから想いが伝われば、それは誠実だ。だから菜穂子は安心して手を握り、微笑みかけるのだ。確かにそれは男性目線の都合のいい解釈に違いない。が、それもまた矛盾ではあるが真理なのだ。
大正から昭和初期にかけての、人々の暮らしや街並が美しく生き生きと描かれる。宮崎はもちろんこの時代をリアルタイムで知る世代ではないが、綿密にリサーチされたに違いない、これら「かつて在った日本の姿」。やがて破滅し、そして姿を消していく。これもまた有限。そして、牛が戦闘機を曳いてゆく。なんとまあ矛盾ではないか。
風、有限の人生、矛盾こそ真理…二度(一度目はひとりで、二度目はヨメさんとふたりで)観賞し、宮さんの「引退」会見を聴いて、すべてが繋がった。
そして、エンドロール、ユーミンの「ひこうき雲」をバックに流れていく絵コンテに涙する。
宮崎駿監督「この世は生きるに値する」 引退会見の全文(日経新聞) <登録会員限定>
「引退」といっても何かの契約を更新しないとかそういうはっきりした区切りがあるわけではなく、自分自身が「もう作らない」と決めたというだけのことで、ご本人にしてみれば本来他人様に宣言するような話でもないが皆が聞きたがるので面倒くさいから発表した、というくらいのものなのだろう。
会見の言葉の中で個人的に最も印象的だったのは、以下の一節。
監督になってよかったと思ったことは一度もないが、アニメーターになってよかったと思ったことは何度かある。アニメーターは、なんでもないカットが描けたとか、うまく風が描けたとか、うまく水の処理ができたとか、そういうことで2、3日は幸せになれる。アニメーターは自分に合っているいい職業だったと思っている。
自分は、小学生のときにナウシカを、中学生のときにトトロを観て心底衝撃を受けた(ラピュタはリアルタイムではなくだいぶ後になってから観た)。
ナウシカではその世界観の壮大さと神秘性に打たれたのだけれど、トトロではアニメーションの表現の繊細さに吃驚した。
特に「風」の表現だ。
風が森の木々や水田に張られた水をなでていく様の表現。
それまで、アニメ(に限らず映画やドラマ)というものを「お話」としてしか捉えていなかった自分に、それらを「表現」として観る視点を与えてくれたのが『となりのトトロ』だった。
大人になって映画好きになって今に至るまで、その視点は自分の観賞スタンスの基礎になっている。
そして、宮崎氏のおそらく最後になる商業映画が『風立ちぬ』。
近々二度目の観賞を予定している。
スクリーンに定着した「風」をじっくり堪能してこよう。
『八重の桜』
昨年の『平清盛』を全話視た流れで視始めた。
序盤は、画面が綺麗なのと、八重が鉄砲の練習をするシーンくらいしか見どころないかなという印象だったけど、だんだんよくなってきたね。
会津戦争以降は本当に素晴らしい。
過去視た大河ドラマの中で一番かもしれない。
尚之助やうらとの別れは切ないし、綾瀬はるかは凛々しく、肝の据わった八重にぴったり嵌っている。
賊軍の汚名を着せられボロボロにされた会津の人びとが、明治の世に変わるや、留学したり西洋の学問を学んだりして激動の時代を生き抜いていく。
その逞しさには打たれる。
『あまちゃん』
土曜日などにちょっと視るくらいだったのが、夏休み中に毎日視て離れられなくなり、今では23時からのBS再放送を毎晩視るようになってしまった。
ちょっとした小ネタがいちいち可笑しいし、何より鈴鹿ひろ美さんが素晴らしいね。
薬師丸ひろ子を見直してしまった。
能年玲奈は魅力的だが、これだけアキのイメージが強烈に定着してしまって、今後大丈夫なのだろうか。
『半沢直樹』
職場でもやたらと話題になっているので4回目くらいから視始めた。
よく知らない人には「銀行ってこんな恐ろしいところなのか」と思われてしまっているような。
実際、銀行の人といっしょに仕事しているけど、もちろんかなりの程度デフォルメはされているものの、銀行っていう世界の生態や論理を結構うまく表現できている。
そんな生々しさも魅力の一つなんだろう。
が、出向=左遷という構図で図式化されてしまうのは如何なものか。
一般的には出向ってスキルを磨く好機なんだがね。
あとは役者陣のアクの強い演技がいい。
そんな中に壇蜜なんかがぽっと放り込まれてたりするからケミストリーがよい感じに起こる。
昨日から東京編が始まりましたが、東京中央銀行京橋支店のロケに使われていたのは日本橋の日本ビルヂングだね。
よく通る場所なのですぐに判った。
最初っから最後まで一回も欠かさず大河ドラマを観たのは、自分にとっても初めてのこと。
『龍馬伝』で初めて最終回まで観切りましたが、『龍馬伝』も最初の数回は観ていなかったので。
低視聴率、兵庫県知事の批判など、いろいろと云われた『平清盛』でしたが、視聴率が低かったのは端的に云って女性に受けないないようだったからでしょう。
そもそもが華やかさと縁の無い武士(もののふ)の世界、しかも朝廷を巻き込んでのどんよりとした人間関係など、今どき女性に受けないもので視聴率が上がるはずがない。
来年の『八重の桜』は綾瀬はるかで視聴率回復することでしょう。
「画面が汚い」という批判もまったく意味が分からない。
小奇麗で無菌な人工的な画面みてりゃ楽しいんでしょうか?
登場人物の関係が分かり難いってのはその通りですね。
平のナントカ、藤原のナントカ、源のナントカ…同じような名前の人物がいっぱい出てきて、自分もかなりWikipediaのお世話になりました。
思うに、日本史上、ここまで大きく価値観の転換が生じた時代は他にないのではないかと。
確かに明治維新も大きな転換期でしたが、支配層が幕府から明治政府に変わった政権交代であり、連続的な変化と云えるのではないかと考えています。
一方で、清盛の時代は、それまでずーっと貴族だけでやってきた政治に武士という異物が入ってきて上下をひっくり返した。
その転換の与えた衝撃たるや、どれほどのものだったのか。
武士が公卿になったり、福原に遷都したりなど、今を生きる我々には容易に想像できないほどのショッキングな出来事だったことでしょう。
ドラマはそのあたりの価値観の転換を描くことに力を注いでいたように思いますが、なかなか伝えるのが難しい。
難解だと云われたのはそのあたりの事情もあったのかもしれません。
松山ケンイチも松田翔太も、最後は爺メイクまで、よく演じ切りましたね。
伊東四朗や三上博史の怪演も忘れられません。
聖子ちゃんだけはよく分かりませんでしたが。
個人的に演出面で印象深いのは、平治の乱の回での信西(阿部サダヲ)の無念さの表現、清盛が熱病にうなされる回で白河院が夢に登場して清盛の半生に深みをもたらした表現、鹿ケ谷の陰謀の回で西光を蹴り殺さんとする清盛と伊豆で覚醒する頼朝をカットバックすることで権力者の狂気と没落の予感を描出した表現といったあたり。
とても佳いドラマでした。
「アーティスト」作品賞など5冠…アカデミー賞(読売新聞) - goo ニュース
作品賞はサイレントですか。
カンヌほどではないにせよ、アカデミーは時々こういうアンチビジネスなところを見せることがありますね。
そういうとこ嫌いじゃないけど。
フランス映画なのに外国語映画賞じゃないのは、字幕が英語だからなんでしょうか。
喋ってんのは間違いなくフランス語なんだろうけど。
しかしサイレント映画の作品賞受賞が第一回の『つばさ』以来というのも意外ですね。
日本では4月7日公開ですか。
自分も、こんなに映画好きになって古今東西の作品を観まくるようになる前は、モノクロだとかサイレントだとか敷居が相当高かったことを考えると、一般の観客にどこまで受け容れられるか。
でも、結構なスクリーン数でロードショーされるみたいですね。
(公式サイト)
予告編観る限り、映像はきれいで現代的だし、オスカー効果もあって結構客が入るかもしれません。
それはそれで結構なことで。