日本型ポピュリズム―政治への期待と幻滅中央公論新社このアイテムの詳細を見る |
春ごろに読んだ本。
1990年代初の自民党分裂下野に始まる「政治改革」の波から、自社さ連立政権の時代、「加藤の乱」、国民投票的首相小泉の登場、田中真紀子騒動といった一連の政界における出来事を振り返るとともに、背景としてテレビのワイドショー的報道番組の成立事情と特徴にも触れ、日本の政界における「ポピュリズム」の台頭・顕在化について分析されている。
ちなみに、2003年に発刊された本であり、昨年の郵政解散については時期が前後している。
ここ15年ほどの政界における一連の流れを体系的にレビューできる。
特に、細川政権誕生とそのあっけない瓦解に際しての「社民勢力」の解体に関する分析や、いわゆる「政治改革」があったがために政党の庇護から放り出された政治家個人の地位不安定化が政策本位の政治をますます遠ざけてしまった逆説に関する解説などは、特に興味深い。
が、もっとも感銘を受けたのは「あとがき」に書かれた、ポピュリズム・政治のワイドショー化の悪弊を言い当てた以下の箇所である。
ちょっと長くなるが、引用したい。
今日の日本政治にとって最大の不幸は、「改革派」が、常にマクロ経済的には誤った政策を掲げ、政権をとったとたんにそれを推進してきたことにある。そのため立ち直りかけた景気回復に冷水を浴びせ続け、「日本経済の失われた10年」の最大の原因を作った。皮肉にも、いわゆる「抵抗勢力」の方が、マクロ経済的にはより正しい政策を提唱してきたし、彼らが「改革政権」のマクロ経済政策上の失敗の被害が致命的になることをそのたびに阻止してきた。
1990年代に政治の「道徳主義的」解釈が蔓延した結果、今では、国民にとって痛みを伴う「苦い」政策こそが、「改革」の正しさを表わし、「甘い」政策は国民の歓心をかうだけの「まやかし」の政策であるとの評価が、マスコミや世論に定着してしてしまった感がある。
マスメディアによって、あまりに「道徳主義」化し、善玉・悪玉二元論に固まってしまった有権者の判断を、成熟した大人の「現実主義」によって、克服すべきときがきているというのが、筆者の判断である。90年代日本は、防衛問題については、徐々にではあるが「理想主義的」「道徳主義的」平和論たる非武装主義を克服し、「現実主義」化していくことに成功した。経済問題についても、それができないはずがない。
自分自身、小泉~安倍の流れにはどちらかといえば与する立場ではあるが、一方で、彼らのような国民的人気を背景にした人物でないと首相になれないという状況の固定化を無自覚に受け入れるのは危険だという気もしている。
その傍にぽっかり開いている陥穽には留意しなければならない。