あすにも国会正常化へ 野党、沖縄敗北で審議模索(産経新聞) - goo ニュース
教育基本法をめぐる国会の混乱もようやく収束の方向に向かっているようです。
この法律が改正されたからといって、教育の現状がすぐに変わるとも思えないけど、「基本」と銘打った法律だけに重要なものであるのは確かだと思うし、そんな大事な法律があんな形で衆議院を通過してしまうというのも何だかなあ。
やたらと成立を焦っている与党も与党だし、野党にしても、タウンミーティングのやらせ質問とか未履修問題とか、それぞれにけしからん問題だし徹底究明は必要だと思うけど、どうも批判しやすいところを批判しているようで。
争うんだったらもっと正面から教育基本法のあり方について争って欲しいし、社民党や共産党はともかく、有権者が民主党に期待しているのはそんなやり方ではないと思うんだけど。
さすがに、そんな空気を読んでの路線転換なんだろうか(沖縄知事選の野党敗戦も踏まえて)。
先週届いた安倍内閣メールマガジンでは、安倍総理自身が教育基本法改正についての思いを綴っていた。
戦後教育は、道徳や倫理観、自律の精神、公共の精神といった点について疎かになっていたという問題意識を強く持っているとのこと。
確かにね。
自分も、道徳心だとか公共心ってホント低下してるよな、って思うことしばしばです。
30数年しか生きていないので、昔の日本を体験しているわけじゃないけど、例えば小津安二郎の昔の映画なんかに出てくる日本人の姿を見ると、やっぱり日本人から道徳心や公共心が失われてしまったんだなあと実感せざるをえないのも正直なところ。
だけど、そもそも道徳とか公共心って、学校教育で教え込むことができるものなのかな?
だいたい教える側の教師が道徳だとか公共心を身につけてなければ、いくら法律や指導要領を変えたところで、現場ではどうにもならないんじゃないだろうか。
一方で、こんな見方もある。
内田樹氏のブログでは、日本人が公共心を持つことをやめたのは、戦後日本が平和に繁栄してきたことの証拠だ、との考え方が語られている。
貧しくて、危険で、一人ぼっちでは生きていけない社会では、コミュニティーに依存しなければ生きていけない。
コミュニティーに生きるためには、利己主義ではいておられず、自然と公共心を発揮することになる。
ところが、飽食で平和な時代には、コミュニティーに頼らなくても一人で生きていける。
公共心なんてわずらわしいものを持たなくても、生きていけてしまうのである。
少子化だとか、家族の崩壊だとか、ひきこもりニートだとか、すべてこの説で説明できるという。
確かにそんなものかなとも思う。
平和で豊かで、しかも人々が道徳的で公共性に溢れている、なんてありえないのかも。
こっちを押せばあっちが引っ込むのである。
自分自身振り返ってみても、思い当たるところがある。
自分は、とある私立の中高一貫校に通っていたのだが、その学校は今どき(といっても15~20年前の話だが)珍しいくらい不自由な学校だった。
いわゆる「詰め込み教育」の学校だったし、校則は厳しいし校則の運用も厳格、学校行事も前時代的で、「個性」だとか「自由」だとかいったものとはかけ離れた学校だった。
だから、通っていた当時はホントにイヤでイヤで仕方なかった。
早くこの学校を出たいという思いが、大学受験のモチベーションになっていたくらいである。
が、今になってみるとその学校で理不尽な目にたくさん遭ったことで根性というか忍耐力がつき、それが社会に出てから役立っているような気がする。
世の中に出ると、理不尽なことは数多ある。
それを人より早めに体験できたような気がするのである。
だからといって、当時を懐かしむ気にもならないし、例えば自分の子供をあの学校に入れたいとも思わない。
もっと楽しく過ごせたはずの中高時代を棒にふったという恨みがましい思いも否定できない。
結局、何かを得るためには、代わりに何かを捨てなければならないということなのかもしれない。