本著の中でも紹介されているファミコンソフト「いっき」。
ああ、そういうのあった!と懐かしくなりましたが、確かに一揆というと竹槍持っての武装蜂起というイメージなんだよね。
(1980年生まれの著者がよくそんなの知ってるな、という気はしたけど…)
ところが、そういった竹槍武装蜂起イメージの一揆というのは「階級闘争史観」に囚われたものだと著者は断じます。
明治初期のほんの10年間ほどに発生した「新政府反対一揆」に限られるものであると。
中世・近世の一揆(国人一揆、一向一揆、土一揆、百姓一揆、etc)は、体制転覆を目指したようなものではなく、体制の存続を肯定し、体制内での地位向上、待遇改善を目指し、権力者に対してアピールを行うものであった。
現代で云えば、強訴はデモであり、逃散はストライキであると。
労使協調を前提とした「春闘」や、現実的・具体的な解決策を提示しない「反原発デモ」という喩えが、非常によく腹に落ちます。
これとは別に、一揆には「契約」という側面をもった形態のものがあったことが解説されます。
交換型の一揆契状を取り交わし、同盟関係を結んだり、親子契約・兄弟契約を締結したりする。
地縁・血縁ではなく、「ルール」を基盤とした関係を構築する点で、著者はこれらを現代におけるSNSになぞらえます。
ただ、こっちの喩えはわかるようでわからん感じ。
とにかく、「春闘」や「反原発デモ」のイメージがとてもわかりやすく、日本人って昔も今も変わらんのね、というか、これから先もちょっとやそっとじゃ変わらんのだろうな、というのが最も印象に残りました。