自分が小学校高学年だった昭和50年代後半(1980年代前半)、初代タイガーマスクの登場を契機に、日本のプロレスは黄金時代を迎えた。
金曜の20時には新日本プロレスの中継番組「ワールドプロレスリング」が、土曜の夕方(その後19時からに変更)には「全日本プロレス中継」が毎週放映され、クラスの男子の半分以上はプロレスファンで、欠かさず観ないことには話についていけない。テレビ東京では「世界のプロレス」なんて番組もやっていたっけ。
インターネットも無い時代、一般のニュース番組や新聞ではプロレスが取り上げられることもなく、プロレスやプロレスラーに纏わる情報のソースはプロレス雑誌や書籍などの一部の活字媒体に限られ、小学生の間でも新たな情報を誰かが得たら速攻シェアし合う、そんな様相だった。
そのような時代に、マンガという最もわかりやすい形式で、当時の超大物プロレスラーの逸話を実録形式で伝えてくれる『プロレススーパースター列伝』に、当時の小学生が熱狂したのは当然のこと。原作は、あの梶原一騎、そして作画を担当していたのが当時他では全く無名だった原田久仁信。その原田氏が連載当時の実生活や梶原一騎との思い出を回想した一冊が本著。
『プロレススーパースター列伝』は、1980年から83年にかけて「週刊少年サンデー」に連載され、梶原一騎が傷害事件で逮捕されたことで突如終了となった。この事件のニュースも印象深く記憶に残っているのだが、自分が『列伝』を初めて読んだのがちょうどこの83年頃、小学5年生くらいだったと記憶しているので当時はもうサンデーでの連載は終わっていたということになる。初めて読んだのはコミックスで、ハルク・ホーガン編(12、13巻)を買って読んだと記憶している。その後、友達に借りたりしてコミックスは全巻読破したはずである(前述したように、プロレス情報は友だちの間の「共有財産」だった)。
本著を読んだことをきっかけに、今Kindle unlimited で40年ぶりに『列伝』を再読中なのだが、いやー懐かしい。
馬場・猪木編で、馬場が風呂場で転んでガラスまみれになった画や、力道山がナイトクラブで刺される画は今でも鮮明に覚えていた。
超大物・梶原一騎のパートナーとして、無名の若手漫画家が何故抜擢されたのか、その理由は著者自身もよくわからないと言う。
サンデーは毎週水曜日発売、編集部に原稿を渡すのが前の週の金曜日夜。梶原の原稿が火曜日に届くので、火曜日から金曜日まで、4日間で作画を完成させるサイクルに必死で付いていったとのこと。
主人公のレスラーごとに分かれる各編は、サンデーに連載された際の順番と、コミックスの登場順が異なるとのこと(自分は本著で初めて認識した)。確かに、連載時に一番最初だったファンクス編を改めて読んでみると著者の画力がまだ拙ったことがよく分かる。
著者にとって、『列伝』全編を通じて最難関だったのがミル・マスカラス編。マスクマンだらけのストーリーで、流血試合やマスクが破れたシーンを描くときの難易度の高さには、それまで経験したことのない労力を費やしたと語られている。
プロレス技で、描くのが最も難しいのが関節技というのも納得できる。特に、吊り天井固め(ロメロ・スペシャル)は最高難度、仕事場でアシスタントに「実践」してもらおうとしたが、完成形に持っていく前段、かけられる側がうつ伏せ状態になっている時点で痛みに耐えられず、失敗に終わったという笑い話も。
この辺りも、連載当時の生の雰囲気が感じられて楽しい。
『列伝』は実録ものではあるものの、梶原による創作がふんだんに盛り込まれている。随所に挿入されるアントニオ猪木の解説コメントも、本人の了解すら取らずに書かれていたと。要するに「実話をベースにしたフィクション」である。アンドレ・ザ・ジャイアントが、レスラーになる前はアンデスの木こりだったというエピソードも梶原の完全オリジナルだそうだ。
一方で、梶原の書くストーリーは、プッチャーにしても、ハンセン、ブロディにしても、素の人間性を描くことで、キャラクタを「演じている」側面をそれとなく漂わせていた。
この点について、著者は次のように語る。
*************
梶原先生の原作には、子どもにレベルを合わせようと考え、内容を単純に、平易にするという発想がなかった。難解なストーリーこそないが、プロレスラーの凄さはその肉体と強さのみならず、高貴な精神性にあるのだという考えが、作品のなかに貫かれていたように思う。
*************
この虚実内混ぜになった高度なバランス感覚に、小学生当時どこまで意識的だったかは覚えていないが、社会には表裏があることを何となく察知する年頃にこの作品に出会えたことは、人としての成長に幾らか影響を受けたような気はする。
そう言えば、「ガッデム」「ビバ」なんていう外国語を覚えたのもこのマンガだった。
「シャラップ!」「ゲラーアウト!」のように梶原が書くセリフはネイティブの発音に近いカタカナが使われているのも、今考えるとちょっとオトナな感じがする。
梶原一騎は、逮捕勾留・保釈後に病に倒れる。その後執行猶予付きの有罪判決を受け、闘病しながら再び著者とのコンビで自伝マンガ『男の星座』を連載するが、連載途中の1987年に50歳で死去。
著者・原田久仁信は、『列伝』の印税もあって食うには困らない程度に仕事はあったようだがその後ヒット作を生むことはなく、50代の頃はマンガの仕事も無くなってアルバイト生活をしていたとのこと。当時新人漫画家だった彼も、今や70歳を超える年齢になっているのだ。
著者は語る、
*************
『列伝』は時代のなかで生かされた奇跡の作品だった。プロレスがもっとも輝いた80年代、この漫画を読んでくれた少年ファンはいわば「時代の目撃者」である。梶原先生の才能と、すべてを許容したプロレスの包容力、そしてときに厳しく作品の仕上がりをチェックする数百万の読者が、三位一体となって『列伝』を創り出した。
*************
そんな「時代の目撃者」の一人であることを幸福に思う。
#ブクログ
金曜の20時には新日本プロレスの中継番組「ワールドプロレスリング」が、土曜の夕方(その後19時からに変更)には「全日本プロレス中継」が毎週放映され、クラスの男子の半分以上はプロレスファンで、欠かさず観ないことには話についていけない。テレビ東京では「世界のプロレス」なんて番組もやっていたっけ。
インターネットも無い時代、一般のニュース番組や新聞ではプロレスが取り上げられることもなく、プロレスやプロレスラーに纏わる情報のソースはプロレス雑誌や書籍などの一部の活字媒体に限られ、小学生の間でも新たな情報を誰かが得たら速攻シェアし合う、そんな様相だった。
そのような時代に、マンガという最もわかりやすい形式で、当時の超大物プロレスラーの逸話を実録形式で伝えてくれる『プロレススーパースター列伝』に、当時の小学生が熱狂したのは当然のこと。原作は、あの梶原一騎、そして作画を担当していたのが当時他では全く無名だった原田久仁信。その原田氏が連載当時の実生活や梶原一騎との思い出を回想した一冊が本著。
『プロレススーパースター列伝』は、1980年から83年にかけて「週刊少年サンデー」に連載され、梶原一騎が傷害事件で逮捕されたことで突如終了となった。この事件のニュースも印象深く記憶に残っているのだが、自分が『列伝』を初めて読んだのがちょうどこの83年頃、小学5年生くらいだったと記憶しているので当時はもうサンデーでの連載は終わっていたということになる。初めて読んだのはコミックスで、ハルク・ホーガン編(12、13巻)を買って読んだと記憶している。その後、友達に借りたりしてコミックスは全巻読破したはずである(前述したように、プロレス情報は友だちの間の「共有財産」だった)。
本著を読んだことをきっかけに、今Kindle unlimited で40年ぶりに『列伝』を再読中なのだが、いやー懐かしい。
馬場・猪木編で、馬場が風呂場で転んでガラスまみれになった画や、力道山がナイトクラブで刺される画は今でも鮮明に覚えていた。
超大物・梶原一騎のパートナーとして、無名の若手漫画家が何故抜擢されたのか、その理由は著者自身もよくわからないと言う。
サンデーは毎週水曜日発売、編集部に原稿を渡すのが前の週の金曜日夜。梶原の原稿が火曜日に届くので、火曜日から金曜日まで、4日間で作画を完成させるサイクルに必死で付いていったとのこと。
主人公のレスラーごとに分かれる各編は、サンデーに連載された際の順番と、コミックスの登場順が異なるとのこと(自分は本著で初めて認識した)。確かに、連載時に一番最初だったファンクス編を改めて読んでみると著者の画力がまだ拙ったことがよく分かる。
著者にとって、『列伝』全編を通じて最難関だったのがミル・マスカラス編。マスクマンだらけのストーリーで、流血試合やマスクが破れたシーンを描くときの難易度の高さには、それまで経験したことのない労力を費やしたと語られている。
プロレス技で、描くのが最も難しいのが関節技というのも納得できる。特に、吊り天井固め(ロメロ・スペシャル)は最高難度、仕事場でアシスタントに「実践」してもらおうとしたが、完成形に持っていく前段、かけられる側がうつ伏せ状態になっている時点で痛みに耐えられず、失敗に終わったという笑い話も。
この辺りも、連載当時の生の雰囲気が感じられて楽しい。
『列伝』は実録ものではあるものの、梶原による創作がふんだんに盛り込まれている。随所に挿入されるアントニオ猪木の解説コメントも、本人の了解すら取らずに書かれていたと。要するに「実話をベースにしたフィクション」である。アンドレ・ザ・ジャイアントが、レスラーになる前はアンデスの木こりだったというエピソードも梶原の完全オリジナルだそうだ。
一方で、梶原の書くストーリーは、プッチャーにしても、ハンセン、ブロディにしても、素の人間性を描くことで、キャラクタを「演じている」側面をそれとなく漂わせていた。
この点について、著者は次のように語る。
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梶原先生の原作には、子どもにレベルを合わせようと考え、内容を単純に、平易にするという発想がなかった。難解なストーリーこそないが、プロレスラーの凄さはその肉体と強さのみならず、高貴な精神性にあるのだという考えが、作品のなかに貫かれていたように思う。
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この虚実内混ぜになった高度なバランス感覚に、小学生当時どこまで意識的だったかは覚えていないが、社会には表裏があることを何となく察知する年頃にこの作品に出会えたことは、人としての成長に幾らか影響を受けたような気はする。
そう言えば、「ガッデム」「ビバ」なんていう外国語を覚えたのもこのマンガだった。
「シャラップ!」「ゲラーアウト!」のように梶原が書くセリフはネイティブの発音に近いカタカナが使われているのも、今考えるとちょっとオトナな感じがする。
梶原一騎は、逮捕勾留・保釈後に病に倒れる。その後執行猶予付きの有罪判決を受け、闘病しながら再び著者とのコンビで自伝マンガ『男の星座』を連載するが、連載途中の1987年に50歳で死去。
著者・原田久仁信は、『列伝』の印税もあって食うには困らない程度に仕事はあったようだがその後ヒット作を生むことはなく、50代の頃はマンガの仕事も無くなってアルバイト生活をしていたとのこと。当時新人漫画家だった彼も、今や70歳を超える年齢になっているのだ。
著者は語る、
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『列伝』は時代のなかで生かされた奇跡の作品だった。プロレスがもっとも輝いた80年代、この漫画を読んでくれた少年ファンはいわば「時代の目撃者」である。梶原先生の才能と、すべてを許容したプロレスの包容力、そしてときに厳しく作品の仕上がりをチェックする数百万の読者が、三位一体となって『列伝』を創り出した。
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そんな「時代の目撃者」の一人であることを幸福に思う。
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